「暴」について

どうもどうも。
すっかり秋めいた涼しいというか肌寒い季節となってまいりましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は秋雨前線が大嫌いです。

そう秋雨前線、まじダルイっすよね。焚き火も山登りもなかなかでけへん。
ということで、最近疲れ気味のワタクシ。今日はちょい短めの記事にしときたいと思います(いや、いつもが無駄に長すぎるという説あり)。

ということで、早速、今月のお題。それは「暴」について。

「暴」? それって何って感じですよね。
実は先日、ヒルネットでこの「暴」にまつわるミーティングをメンバーと行いました。

「暴」とは、暴力の「暴」であり、暴言の「暴」であり、あるいは単に「暴れる」ことの「暴」でもある。

ヒルネットに限らず、僕も個人レッスンやグループレッスン、果ては大昔の予備校講師時代含めると、なんやかんやでもう20年近く在野で教師的な何かを仕事としてきました。
それこそ小学生のころ知り合って、今やすっかりオッサンになってしまった生徒だって何人もいます。

その中には、勿論いろんな子どもがいました。
そして今もやっぱり、いろんな子どもたちがいます。

そうした「いろんな」傾向の中に、「暴」言を吐いてしまったり「暴」力的になってしまったり、いろいろな意味で「暴」れてしまう子だっている。
また、逆に一緒に過ごしていて、そういう「暴」の空気を敏感に感じ取り、心をざらつかせてしまう子だっています。

ヒルネットという「居場所」は、別に皆が「仲良く」する必要はないけれども、誰もが安心して過ごせる場所ではあってほしいと僕は思っています。
そういう意味では「暴」力的な言動で傷ついてしまう人がいるならば、それはなるべく抑制してもらいたい。

だけど、ね。
これが難しいのは、誰だって好きで「暴」力をふるいたいわけじゃないってことです。

いや、大人だったり大人に近い年齢の子どもたちはそうじゃないかもしれない。
でも、まだ比較的、小さい子どもたちは、どうか。
いや「小さい」と形容するには歳を重ねているにせよ、十分に成熟しきっていない少年少女にとっては、どうか。

その「暴」は、彼・彼女の一種の「表現」であるかもしれないのです。
そう、「言葉」ではまだ十分に「表現」できないがゆえの何かしらの感情の。

極端に言って、それは「愛情」なのかもしれない。

例えば、ヒルネットのミーティングでは、一人の少年がこんなことを言っていました。
「僕は本当にMやNのことが大好きなんだ。でも、好きって気持ちが強くなっちゃうと、ついちょっと叩いたりしちゃうんだ」

とても印象に残る言葉でした。それはまた、彼自身が、自分でそう客観的に判っていながらも、なかなか留めることができない苦しさが滲む言葉でした。

他にも、大好きなスタッフにまとわりついて離れず、にもかかわらずずっと「悪言」を言いっぱなしの子どももいます。また、これは別の場ですが、好きな先生のいうことほど聞かず、また好きな子には意地悪ばかりしてしまう子もいました。

繰り返すなら、これは一種の「表現」なのです。
さらに難しくいうなら、それは自己の存在を他者から全的に承認されたいという欲求の裏返しでもあるのでしょう。
簡単に言えば、「甘えたい」のです。

ですから、こうした「暴」の抑制を個々に言葉で求めることはできても、「禁止」することはできません。いや言葉で「禁止」とは言えても、それを「排除」することは決してやってはいけません。

とはいえ、一方で、誰かのその「暴」により傷つく人間も確かに存在する。
いや、当事者はもちろん、そういう空気の「乱れ」を敏感に感じて、気分を落ち込ませる人だっている。

では、どうすればいいのか?

もちろん、いつものことながら、簡単な解決なんてありません。
でも、例えば、子どもたちからはこんな意見が出ました。

ーー誰かが暴れだしちゃったりケンカになっちゃたりしたとき、結局どうすればいいだろう?
「そのときは、スーッと別の場所に行っちゃおうかな」
「関係ないよって顔しとこう。だってそれは、その子とその子のモメ事だから、本当ならその子たち自身で解決しなくちゃいけない問題だから」
ーーでも、誰かが暴れていると、みんな嫌な気分になっちゃうことない?
「別に。僕は無関係だもん」
ーーでも、無関係だって思えない人だっているんじゃない?
「まあ余裕のあるときは、暴れちゃってる子に、『落ち着けよ』って声ぐらいかけてあげるかな」
「いま『暴走』しちゃってるよって肩をトントン叩いてもらえるといいかもね」
「肩トントンはいいね。それで『暴走』してるよって合図になる」
「それなら、『どうどう、落ち着けよ』って言ってあげた方がいいんじゃない」
「なんにせよ、声ぐらいはかけてあげていいかも。もっと余裕があれが、その場から引き離してあげられたらいいよね」
ーーでも、みんなにそういう余裕がないときはどうする?
「そんときはイマンモかレイセンが『イケニエ』になるしかないでしょ当たり前じゃん!」

実際、いつもいつも皆に「余裕」があるわけではないでしょう。
むしろ、そんなときは多くなく、僕やレイ分隊長が「イケニエ」になることの方が多いかもしれません。
でも、「暴」をふるってしまう子も、それが嫌な子も、一人ひとりが、それぞれの「解決」を考える。そのこと自体に意味があるんだろうとも思います。
そんなことを考えさせられた最近の活動でした。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

ぼーっとする時間を大切に

どうもどうも。
皆さん、明けましておめでとうございます。ってもう全然正月気分も遠くなってるわけですが、そんな遅ればせながら的なことを書くのも、このブログの毎年恒例ということで。

さてさて、というわけで本年初めのブログ記事。本来なら今年の抱負とか何かを書くべきかもしれないんですが、残念ながらというか別に残念でもなんでもないんですが、特にそうしたものはパッとは浮かばない。
というか、そんなこと考えて一年の初めを迎えたことなんて、これまで一度もなかったんですが、ふつうはやっぱり多少なりともそんなことを考えながら年を越したり迎えたりするもんなんですかね? いや、でもほんとにほんと?

でも、まあ他の人のブログとかネットの記事とか見てると、そんな内容のものがちらほら目に入ってきて、そうか、じゃあせっかくなので俺だってなんか抱負的なものを述べたいなあなんてことを思って思って考えながら、結局、今日に至る。
昨年の反省を生かしつつ、抱負とまではいかずとも今年一年少し大切にしたいなあというようなものはないもんだろうか。
で、昨日あたり、思いついたのが、これ。今年の抱負。というか、まあ少し大切にしたいこと。

それは、ほんの少し「ぼーっとする時間」を今年はつくる。
ゆっくりする。休む時間をつくる。

 

いやいや世間一般の皆さん、とりわけ比較的ブラックな環境で働いている方々なんかと比べれば、僕なんか全然働いてないですし、むしろもっと働けよ的なプレッシャーを日々我が家の勘定奉行兼総理大臣でもある奥さんからかけられておるわけなんですが、それでも主観的には昨年ずうっと忙しかった。
というわけで、今年は少し怠けたい。
っという本音は別にして、僕が言いたいのは物理的に休日を増やすとか仕事をセーブするとか、そういうことではないんですね(ただ繰り返せば、本音では怠けたい)。

実際、ヒルネットの活動を今年はますます頑張ろうとか、そのためにまた各所に見学研究に出かけようとか、読書WS等の土曜グループレッスンも盛り上げていこうとか、仕事への意欲は変わらず旺盛でありたい(が、しつこく言えば、もう少し怠けたい)。

 

ただ、一方で、頭の中に、どこか無駄なスペースというか、何も働いていない部分というか、意識的にボーッとするゆとりを持っていきたい。
次から次に何かに追われまくるのではなく、というか追われまくる部分もあっていいんですけれど、そういう中でも、一部はしっかりと休んでいる、頭の、あるいは心のゆとりみたいな部分を持っていないとダメなんじゃないかなあと思うわけなんですな。

ぼーっとする時間。

これ、実はけっこう大切な時間だと思うんですよね。
いつだったか昨年、ネットの記事で、おおたとしまささんという教育ジャーナリストの方が、子どもにたくさん習い事をさせるのもいいけれど、実は子どもの才能や能力、その創造性を花開かせるためには、子どもにぼーっとしている時間、休憩している時間を持たせてあげることが大切だ、というような記事を書いておられました(この方は松永先生の知人でもあるので、時折ご著書など拝見させていただいているんですな)。

これは実際、大人も子どもも等しく当てはまることなんじゃないかなと思います。
何もすることがない時間。
いや、実際には「何か」やらなくてはいけないとしても、日常の中でふと、目の前の現実から離れて、どうでもいいようなことに「アタマ」を向ける時間。

電車の中でスマホなんか見ずにぼーっと車外の風景を眺める時間。
お風呂で湯につかりながら、そこはかとなく取り留めのないことを考える時間。
仕事帰りの夜道に何となく星もない空を見上げる時間。

こういう時間を大切にしたい。
なぜなら、実はこういう時間にこそ、様々なアイデアや、物事への好奇心や、何かを作ろうという想像力が生まれてくるからです。本当に。

自由な発想や好奇心、そして創造力が、目の前の現実に追われまくっていて生まれるわけがない。
目の前の現実に対処するのにいっぱいいっぱいの脳ミソに、そんなことを「思いつく」ゆとりはない。
だから、たとえどんなに忙しくても、想像力や好奇心を大切にしたいならば、あるときそうした「現実」を括弧にくくって、全然違うところに脳ミソを持っていく必要があるんだと思います。

そういう意味での、「ぼーっとする時間」を、忙しい中でも大切にしていきたいと思うわけです。

 

そして、繰り返すなら、これは子どもたちを取り巻く環境についても言えることだと思います。
しかも、子どもたちに関して言えば、この「ぼーっとする時間」はもっと長くてもいい。
日常のふとした時間なんてものじゃなく、一年とか、二年とか、そんな長いスパンでの「ぼーっとする時間」があってもいい。

たとえば一年間、勉強に、あるいは習い事やスポーツに一生懸命だった年があったなら、そのぶん別の一年は、「ぼーっとする」一年であったっていいじゃないか。僕は最近、そう思います。

その一年は、はたから見れば「何もやってない」一年に見えるかもしれません。
しかし、子どもたちにとって、その時間は、自分の人生を生き抜いていくためのエネルギーを貯める大切な期間なのかもしれない。
新しいチャレンジに必要な養分を吸収し、新しい想像力をはばたかせるのに必要な一年なのかもしれない。

もちろん一年でなくともいい。人によっては、その「休憩」が3年、4年と必要なのかもしれない。
学校で、塾で、勉強で、あるいは人間関係で疲れた少年少女のアタマや心に、新たに感受し想像する力が宿るためには、人によってはそれぐらいの時間が必要かもしれません。
実際、恥ずかしながら僕なんて、十代のほとんどを「ボーッとして」過ごしておりましたから。

 

ともかくも。
今年一年は、こうした「ぼーっとする時間」、現実とは違う何かに目を向ける時間の重要性を考えていきたいですね。いや本当に。

それでは、それでは。

 

 

 

「集団行動」って何?

どうもどうも。
いよいよ寒さも厳しくなり年の瀬も押しせまりつつある今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は疲労がチョーやばいです。めっちゃ寝ちゃいます。

いよいよ最近、このブログも月一連載みたいになってきましたが、決してサボっているわけではない。いや、サボっているのですが、ヒルネットの活動記録を書きながらブログも書いてチョー大量に押し寄せるメールの大群と格闘もしていると、なかなか更新の時間を取れないのでありますよ。

と、更新が少ない言い訳から始まるのもお約束になりつつある今日この頃。今回はちょっとおふざけ気味に行きたいと思います。
そんな今回のお題は、「集団行動」。

どうでしょうか、皆さん。集団行動、好きっすか?

ちなみに僕は嫌いです。大嫌いです。
思わず太文字になってしまうくらい嫌いなんですよ。

この四十数年間を、いかに集団行動を取らずに生き抜くことができるかを最大のテーマとして生きてきたと言っても過言でないくらい嫌いです(大袈裟ではない)。
バリバリの就職氷河期世代でロストなジェネレーションですが、最初から「就職なにそれオイシイの?」的学生だった僕には最初からロストするものなど何も存在しなかった。ある意味で無敵の人です。

ところが、そんな「集団行動」をめっちゃ金科玉条のごとく言ってきやがる場所がある。
それが、日本、の、「学校」。

今から数年前、僕の娘が何かやらかした案件で小学校に妻とともに参上した折のこと。
その際、担任の先生の口から繰り返し出た言葉が、これ。
「〜集団行動を考えると。。」「〜集団行動を守らせる上で。。」等々。

ギャーッヤメローヤメテケレーッ!
その言葉は俺を100年石化させた上で美女に接吻されても今度は醜男に生まれ変わらせてしまうような強力な呪いの言葉なんだ!!(意味不明)

いや、誤解なく言っておくと、その担任の先生はめっちゃいい先生で、その後も娘が十二分にお世話になった理解ある先生でした。
ただ、そんな先生からも、特に違和感を感じておられぬ様子で飛び出してくる、その言葉。

そんなに「集団行動」って、大事なんでしょうか?

まあ、この日本で普通に会社員になったり公務員になったり、もっと言えば普通に「社会人」になる上では、ある程度、必要でしょう。いや、必要だったのでしょう(僕はよう知らんけど)。

ですが、大昔から、そんな社会人的集団行動だって苦手だった人はいる。
いや、むしろそうした「集団」に馴染めなかったからこそ成功を収めた人だってたくさんいるわけです。

さらに言えば、現在の日本社会はもうすでに「集団」に合わせることがそれほど重要な社会ではなくなってきている。
少なくとも「横並び」に「みんなと同じ行動」をとっていれば安穏と人生を渡っていけるような社会ではなくなってきていることは衆目の一致するところなわけでしょう。
いや、よう知らんけど。

ところが、あかん感じの学校でだけは、相変わらず古臭い「集団行動」を是としておるわけです(「あかん感じ」じゃない学校もだんだん出来てきてますけどね)。

そもそも「集団行動」とは何じゃろか?

皆と同じように行動することが集団行動なのか?
皆と同じ時間にホウキ持ってホース持って「掃除の時間」を演じるのが集団行動?
皆と同じ時間に体育着に着替えて皆と同じ時間に指定の場所にいけるのが集団行動?
皆と同じスピードで給食を食べ終わるのが集団行動?
皆と同じように「空気を読んで」45分間「良い子」でいるのが集団行動?

ウソだろそんなの後100回生き返ったってやっぱり出来っっこないって感じだぜっ!!

。。。という僕の社会人失格的言動は別にしても、それってやっぱり本当の意味での「集団行動」ではない気がします。

本当に必要なこととは、自分とは大きく異なる他者とでも、会話し協力しお互いを気遣い一人の力では出来なかった何事かを成し遂げられるような力を養うことではないでしょうか?
つまり他者と「コミュニケート」し「コラボレート」する力の涵養。

「他者」とはただの「他人」とは違う、自分とは考えも知的文化的背景も全く異なる存在のこと。
日常的に言うなら、「空気の読み合い」なんてものが通じないような人のこと。

しかし、現実の「社会」では、そうした他者との間とでも協力関係を結べないことこそ問題であるはずです。
そして、そんな他者と関係する力を養うのが「集団」を模倣する力であるはずがない。「掃除の時間」のわけがない。

そうではなく、全く年齢や生育環境の異なる子ども同士が、一つの遊びや課題を一緒に行うことができるか? 必要な気遣いができるか? まったく共通の話題がない中でも会話し協力できるか?
折々にそうした「協力行動」の機会を設けることこそが、「みんなと同じ」ことよりもよほど大切なんじゃないかと思います。

そんでもって、そういう「コミュニケーション」「コラボレーション」をすることなら、「集団行動」が苦手な子どもにだってできないわけじゃない。
むしろ異個性・異年齢の子どもたちが「協力」して事にあたる姿を、ヒルネットやV-net焚き火会などで、たくさん見てきました。

そしてまた、そういうことなら少なくとも、「集団行動」には呪われてる子どもの頃の僕にだって出来たんじゃないの?とかって思わないでもないわけです。いや、どうかな。。

それでは、それでは。