ぼーっとする時間を大切に

どうもどうも。
皆さん、明けましておめでとうございます。ってもう全然正月気分も遠くなってるわけですが、そんな遅ればせながら的なことを書くのも、このブログの毎年恒例ということで。

さてさて、というわけで本年初めのブログ記事。本来なら今年の抱負とか何かを書くべきかもしれないんですが、残念ながらというか別に残念でもなんでもないんですが、特にそうしたものはパッとは浮かばない。
というか、そんなこと考えて一年の初めを迎えたことなんて、これまで一度もなかったんですが、ふつうはやっぱり多少なりともそんなことを考えながら年を越したり迎えたりするもんなんですかね? いや、でもほんとにほんと?

でも、まあ他の人のブログとかネットの記事とか見てると、そんな内容のものがちらほら目に入ってきて、そうか、じゃあせっかくなので俺だってなんか抱負的なものを述べたいなあなんてことを思って思って考えながら、結局、今日に至る。
昨年の反省を生かしつつ、抱負とまではいかずとも今年一年少し大切にしたいなあというようなものはないもんだろうか。
で、昨日あたり、思いついたのが、これ。今年の抱負。というか、まあ少し大切にしたいこと。

それは、ほんの少し「ぼーっとする時間」を今年はつくる。
ゆっくりする。休む時間をつくる。

 

いやいや世間一般の皆さん、とりわけ比較的ブラックな環境で働いている方々なんかと比べれば、僕なんか全然働いてないですし、むしろもっと働けよ的なプレッシャーを日々我が家の勘定奉行兼総理大臣でもある奥さんからかけられておるわけなんですが、それでも主観的には昨年ずうっと忙しかった。
というわけで、今年は少し怠けたい。
っという本音は別にして、僕が言いたいのは物理的に休日を増やすとか仕事をセーブするとか、そういうことではないんですね(ただ繰り返せば、本音では怠けたい)。

実際、ヒルネットの活動を今年はますます頑張ろうとか、そのためにまた各所に見学研究に出かけようとか、読書WS等の土曜グループレッスンも盛り上げていこうとか、仕事への意欲は変わらず旺盛でありたい(が、しつこく言えば、もう少し怠けたい)。

 

ただ、一方で、頭の中に、どこか無駄なスペースというか、何も働いていない部分というか、意識的にボーッとするゆとりを持っていきたい。
次から次に何かに追われまくるのではなく、というか追われまくる部分もあっていいんですけれど、そういう中でも、一部はしっかりと休んでいる、頭の、あるいは心のゆとりみたいな部分を持っていないとダメなんじゃないかなあと思うわけなんですな。

ぼーっとする時間。

これ、実はけっこう大切な時間だと思うんですよね。
いつだったか昨年、ネットの記事で、おおたとしまささんという教育ジャーナリストの方が、子どもにたくさん習い事をさせるのもいいけれど、実は子どもの才能や能力、その創造性を花開かせるためには、子どもにぼーっとしている時間、休憩している時間を持たせてあげることが大切だ、というような記事を書いておられました(この方は松永先生の知人でもあるので、時折ご著書など拝見させていただいているんですな)。

これは実際、大人も子どもも等しく当てはまることなんじゃないかなと思います。
何もすることがない時間。
いや、実際には「何か」やらなくてはいけないとしても、日常の中でふと、目の前の現実から離れて、どうでもいいようなことに「アタマ」を向ける時間。

電車の中でスマホなんか見ずにぼーっと車外の風景を眺める時間。
お風呂で湯につかりながら、そこはかとなく取り留めのないことを考える時間。
仕事帰りの夜道に何となく星もない空を見上げる時間。

こういう時間を大切にしたい。
なぜなら、実はこういう時間にこそ、様々なアイデアや、物事への好奇心や、何かを作ろうという想像力が生まれてくるからです。本当に。

自由な発想や好奇心、そして創造力が、目の前の現実に追われまくっていて生まれるわけがない。
目の前の現実に対処するのにいっぱいいっぱいの脳ミソに、そんなことを「思いつく」ゆとりはない。
だから、たとえどんなに忙しくても、想像力や好奇心を大切にしたいならば、あるときそうした「現実」を括弧にくくって、全然違うところに脳ミソを持っていく必要があるんだと思います。

そういう意味での、「ぼーっとする時間」を、忙しい中でも大切にしていきたいと思うわけです。

 

そして、繰り返すなら、これは子どもたちを取り巻く環境についても言えることだと思います。
しかも、子どもたちに関して言えば、この「ぼーっとする時間」はもっと長くてもいい。
日常のふとした時間なんてものじゃなく、一年とか、二年とか、そんな長いスパンでの「ぼーっとする時間」があってもいい。

たとえば一年間、勉強に、あるいは習い事やスポーツに一生懸命だった年があったなら、そのぶん別の一年は、「ぼーっとする」一年であったっていいじゃないか。僕は最近、そう思います。

その一年は、はたから見れば「何もやってない」一年に見えるかもしれません。
しかし、子どもたちにとって、その時間は、自分の人生を生き抜いていくためのエネルギーを貯める大切な期間なのかもしれない。
新しいチャレンジに必要な養分を吸収し、新しい想像力をはばたかせるのに必要な一年なのかもしれない。

もちろん一年でなくともいい。人によっては、その「休憩」が3年、4年と必要なのかもしれない。
学校で、塾で、勉強で、あるいは人間関係で疲れた少年少女のアタマや心に、新たに感受し想像する力が宿るためには、人によってはそれぐらいの時間が必要かもしれません。
実際、恥ずかしながら僕なんて、十代のほとんどを「ボーッとして」過ごしておりましたから。

 

ともかくも。
今年一年は、こうした「ぼーっとする時間」、現実とは違う何かに目を向ける時間の重要性を考えていきたいですね。いや本当に。

それでは、それでは。

 

 

 

「集団行動」って何?

どうもどうも。
いよいよ寒さも厳しくなり年の瀬も押しせまりつつある今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は疲労がチョーやばいです。めっちゃ寝ちゃいます。

いよいよ最近、このブログも月一連載みたいになってきましたが、決してサボっているわけではない。いや、サボっているのですが、ヒルネットの活動記録を書きながらブログも書いてチョー大量に押し寄せるメールの大群と格闘もしていると、なかなか更新の時間を取れないのでありますよ。

と、更新が少ない言い訳から始まるのもお約束になりつつある今日この頃。今回はちょっとおふざけ気味に行きたいと思います。
そんな今回のお題は、「集団行動」。

どうでしょうか、皆さん。集団行動、好きっすか?

ちなみに僕は嫌いです。大嫌いです。
思わず太文字になってしまうくらい嫌いなんですよ。

この四十数年間を、いかに集団行動を取らずに生き抜くことができるかを最大のテーマとして生きてきたと言っても過言でないくらい嫌いです(大袈裟ではない)。
バリバリの就職氷河期世代でロストなジェネレーションですが、最初から「就職なにそれオイシイの?」的学生だった僕には最初からロストするものなど何も存在しなかった。ある意味で無敵の人です。

ところが、そんな「集団行動」をめっちゃ金科玉条のごとく言ってきやがる場所がある。
それが、日本、の、「学校」。

今から数年前、僕の娘が何かやらかした案件で小学校に妻とともに参上した折のこと。
その際、担任の先生の口から繰り返し出た言葉が、これ。
「〜集団行動を考えると。。」「〜集団行動を守らせる上で。。」等々。

ギャーッヤメローヤメテケレーッ!
その言葉は俺を100年石化させた上で美女に接吻されても今度は醜男に生まれ変わらせてしまうような強力な呪いの言葉なんだ!!(意味不明)

いや、誤解なく言っておくと、その担任の先生はめっちゃいい先生で、その後も娘が十二分にお世話になった理解ある先生でした。
ただ、そんな先生からも、特に違和感を感じておられぬ様子で飛び出してくる、その言葉。

そんなに「集団行動」って、大事なんでしょうか?

まあ、この日本で普通に会社員になったり公務員になったり、もっと言えば普通に「社会人」になる上では、ある程度、必要でしょう。いや、必要だったのでしょう(僕はよう知らんけど)。

ですが、大昔から、そんな社会人的集団行動だって苦手だった人はいる。
いや、むしろそうした「集団」に馴染めなかったからこそ成功を収めた人だってたくさんいるわけです。

さらに言えば、現在の日本社会はもうすでに「集団」に合わせることがそれほど重要な社会ではなくなってきている。
少なくとも「横並び」に「みんなと同じ行動」をとっていれば安穏と人生を渡っていけるような社会ではなくなってきていることは衆目の一致するところなわけでしょう。
いや、よう知らんけど。

ところが、あかん感じの学校でだけは、相変わらず古臭い「集団行動」を是としておるわけです(「あかん感じ」じゃない学校もだんだん出来てきてますけどね)。

そもそも「集団行動」とは何じゃろか?

皆と同じように行動することが集団行動なのか?
皆と同じ時間にホウキ持ってホース持って「掃除の時間」を演じるのが集団行動?
皆と同じ時間に体育着に着替えて皆と同じ時間に指定の場所にいけるのが集団行動?
皆と同じスピードで給食を食べ終わるのが集団行動?
皆と同じように「空気を読んで」45分間「良い子」でいるのが集団行動?

ウソだろそんなの後100回生き返ったってやっぱり出来っっこないって感じだぜっ!!

。。。という僕の社会人失格的言動は別にしても、それってやっぱり本当の意味での「集団行動」ではない気がします。

本当に必要なこととは、自分とは大きく異なる他者とでも、会話し協力しお互いを気遣い一人の力では出来なかった何事かを成し遂げられるような力を養うことではないでしょうか?
つまり他者と「コミュニケート」し「コラボレート」する力の涵養。

「他者」とはただの「他人」とは違う、自分とは考えも知的文化的背景も全く異なる存在のこと。
日常的に言うなら、「空気の読み合い」なんてものが通じないような人のこと。

しかし、現実の「社会」では、そうした他者との間とでも協力関係を結べないことこそ問題であるはずです。
そして、そんな他者と関係する力を養うのが「集団」を模倣する力であるはずがない。「掃除の時間」のわけがない。

そうではなく、全く年齢や生育環境の異なる子ども同士が、一つの遊びや課題を一緒に行うことができるか? 必要な気遣いができるか? まったく共通の話題がない中でも会話し協力できるか?
折々にそうした「協力行動」の機会を設けることこそが、「みんなと同じ」ことよりもよほど大切なんじゃないかと思います。

そんでもって、そういう「コミュニケーション」「コラボレーション」をすることなら、「集団行動」が苦手な子どもにだってできないわけじゃない。
むしろ異個性・異年齢の子どもたちが「協力」して事にあたる姿を、ヒルネットやV-net焚き火会などで、たくさん見てきました。

そしてまた、そういうことなら少なくとも、「集団行動」には呪われてる子どもの頃の僕にだって出来たんじゃないの?とかって思わないでもないわけです。いや、どうかな。。

それでは、それでは。

 

 

 

ヒルネット活動報告・すぎなみ舞祭

どうもどうも。
台風が去りすっかり涼しくというか肌寒くなりつつある東京ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。僕は喉がずっと痛いです。

さてさて、本日はいつもとはちょっと趣向を変えて、僕が代表運営しているヒルネットの活動報告を記事にしときたいと思います(なおヒルネットの正式名称は「自由な学び場 HIRUnet」といいます。ローマ字にしてるのは、そのほうが単にかっこいい気がしてるからです。。)。

前回の記事でも少し触れていたんですが、実は昨日の10月20日、ヒルネットでは活動の一環として、参加する子どもたちと一緒に「すぎなみ舞祭」というお祭りに屋台を出店してきました!

まさにこれこそ「Work(仕事・取り組み) & Experience(体験)」!
などと言うとカッコいいですけど、まあ正直、7月くらいに子どもたちと、

「なんかお祭りとかみんなでやったらオモロいんちゃう?」
「は? またティーチャー、思いつきで言うとるやろ?」
「思いつき? アホか。人生はみんな思いつきから始まるんや」
「そんなアホな」
「人生は旅であり冒険なんやで。ふと思いついていつもと違う道を曲がってみるところに新しい出会いがあるんや!」
「カッコええこと言うて誤魔化さんとき」
「でも、オモロそうやん? 準備とか。みんなでやろうやあ」

と、なんとなくノリで決めちゃったわけなんですね。
出店することとか。
7月の段階では、だいぶ先の話って気分でしたし。

しかーし、実際はけっこう大変でした(当たり前)。
だいたい9月の末には、別の「Work」として、皆で「坊ちゃん文学賞」という賞に応募するために小説も書かなきゃならんかった。
実質、準備は10月に入ってから。

そこから皆で企画を考えたりアクセサリーを作ったりバスボム(入浴剤)作ってみたり。。。
かなり最終盤までバタバタしてましたね。
なんせ初めての「体験」です。僕にとっても。
前々日ぐらいからけっこう緊張してました。

そして当日。
朝の8時ごろから開店の準備を開始。
子どもたちは8時半ごろ別に集合して、会場の「下高井戸おおぞら公園に集合」。
別にアクセサリーを作ってきて参加してくれた女子高生Mちゃん。
当日バイトの男子高生I君も参加してくれて、なんとか9時の祭り開場に間に合いました。

僕たちの店は子どもたちが各自で作った「手作りアクセサリー」が一つ目のメイン商品。
これのためにわざわざ日暮里までフィールドワークにも行きました。

そして、もう一つのメインがキャロム。
これは、まあ物珍しさに寄ってきてくれるといいなあと思ったのもあります。

同時に、僕たちヒルネットの活動はもちろんですが、このキャロムというゲームの面白さをみんなにもう少し知ってもらいたいなあという動機もありました。

 

しかし、張り切って始めたものの、果たして売れるのか?
子どもたちは別として、僕にはそんな不安もちょっとありました。
いや、別に売れなくともいいんですが、なんか自分たちの店だけ盛り上がらない感じになるのは嫌だなあと。
予想に反して(?)子どもたちはみんな楽しみにしていたみたいなんで。

で、結果はどうだったかというと。。

全然、心配することなかったですYO!

もちろん商品がバンバン売れるなんてことはなかったですけど、ちゃんとお客さんがたくさん寄ってきてくれました。
こうなると、子どもたちも「商魂たくましく」盛り上がっていきます!

件の女子高生Mちゃんが高級百貨店売り子のように丁寧かつ断りきれない感ハンパない販促を行っているかと思うと、我らが少年エリート営業マン、サクチャンマンも負けていません。
「お、そこのお姉さん、この髪留め気に入っちゃった? さすがお目が高い。なんとこの商品、一個100円のところをなんとセット! 二つセットで100円にしちゃうよ」
「え? このお守り? このお守りみたいなやつは何だって? いや、これはおいらもカンニングペーパー見ながら言うわけなんだけどさ、これなんと、この世に二つとない、手作りのお守り。ゴッドアイってえインディアンのお守りなのさ。部屋に飾って良し。持ち歩いても良し。幸運をたった100円で買えるんだから、これを買わないって手はないですよ、お姉さん!」

と、実際、あまり誇張してないんじゃないかと言うぐらいの見事な営業トークでどんどん商品を売りまくっていました。
彼の話が面白くて「いい商売人になれるよ!」などと声もかけられるぐらい。マジですごいぜサクチャンマン。

 

一方、キャロムの方も途中からけっこう人が集まってくるようになり、繰り返しゲームに挑戦する子も。

お祭り用のゲームとしては、ストライカーを10回売って、どの色でもいいから3個入れられたら勝ち、というもの。

キャロム経験者からすると、「え?簡単じゃない?」と思う人もいるかもしれませんが、あにはからんや、けっこうムズイ。
特に未経験者には至難の技なのです。

それでも約2名がゲームに勝利して、レイ先生手作りの、キャロムのコマに革紐を通した特製ネックレスを奪って行きました。

それ以外にも、純粋にゲームを楽しんでくれた子どもたちもチラホラ。なかには僕たちとの対戦を希望する少年少女もおりました。

 

そして、あっという間に夕方の4時。
お祭りも終了です。

かなり多く用意したアクセサリー類も、けっこう少なくなっていました。
子どもたちもだいぶ疲れたご様子。
4時20分から撤収を開始し、5時に解散となりました。

 

いや、事前の心配はまったく杞憂で、チョー楽しい「体験」となりましたよ。

また、Mちゃんやサクチャンマンもそうですが、子どもたちがそれぞれの「個性」を発揮してくれたのもすごくよかった。
不器用ながらも一生懸命アクセサリーを作ってくれたコータ氏や、祭り直前に僕の「準備不足」を色々指摘してくれたエカチェさんも。
直前までアクセ作りを頑張ったエマさん、それに皆のお兄さん役をやってくれたI君。

また、これからヒルネットに参加してくれる予定の子どもたちがたくさん「応援」にやって来てくれたのも嬉しかった。
来年、また「すぎなみ舞祭り」に参加できたなら、今度は是非一緒に店をやりましょう!

最後に。
ヒルネットに直接関係なくとも、店に遊びに来てくれた、V-netの生徒それに保護者の皆さん。
本当にありがとうございました。
おかげで子どもたち皆、とても貴重で楽しい「体験」ができたと思います。

 

さてさて。
上にも書きましたが、来年。
これはなかなか癖になる「体験」だったので、また挑戦しちゃおうかな。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

子どもを信頼するということ

どうもどうも。
なんかようやっと春らしくなってきたなと思ったら今度は急に夏というか真夏やんけという暑さに見舞われておる今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今年も夏は酷暑なんでしょうか死にそうです。

さて、実は先日、とあるサドベリー教育を実践しておられるフリースクールへと見学に行ってまいりました。
これはヒルネットの活動の参考にさせてもらいたいというのはもちろんですが、同時にそういう小さなフリースクールの「輪」をつくることで、何か協力しあえることが将来あるかもしれないと、漠然と考えているからでもあります。

まあ、それはさておき、そのスクールの理念や活動は実に参考になるものだったのですけれども、とりわけ印象に残ったのがスタッフの先生の言葉。

それは僕が、子どもたちの学習その他に対する自主性をどこまで信頼すべきなのか、どこまで大人の「お節介」的介入があったほうが良いのか、そのバランスに苦慮することがある、という話をしたときのことでした。その先生は、こう答えました。

「僕は子どもたちをなるべく信頼したいと思っている。だけど、100パーセント完全に信用しているかといえば、それは嘘だと思う。もっといえば、『子どもたちを100パーセント信頼しましょう!』と標語的に唱える人たちは、実のところ欺瞞的であるか、あるいは実際に子どもと関わっていないかのどちらかだと思う」
「繰り返すなら、僕はいつだって子どもたちを信頼しようと努力している。だけど、どうしたって完全には信頼しきれないと感じてしまうときだってある。結局は、そのせめぎ合いのなかにしか、答えはないんじゃないかな」

僕はこの言葉を、教育者として非常に正直な、そして大切な考え方を表している言葉だと思いました。
というのも、サドベリー教育というのは、まさに子どもたちの自主性をラディカルに追求した教育のあり方だからです。
だから、ふつうなら「100パーセント信頼すべきです」と、それこそ標語的に答えたっておかしくはない。でも、その先生のおっしゃる通り、それはどこか欺瞞的ですよね。

じゃあ、その先生がスクールに在籍している子どもたちを信頼してないかというと、全くそんなことはありません。
それは、むしろ子どもたちがその先生を信頼し友人のように接している態度からはっきり理解できるものでした。
つまるところ、その先生は「せめぎ合い」を感じながらも、子どもたちの将来を、その人間性を、確実に「信頼」しているのです。

以上のことを、僕なりに理解すると、こうなります。

子どもたちが「今」「目の前」で行なっている表面的なふるまいや、いくつかの判断を「完全」に信用することはできない。
たとえば極端な話、軽微でも犯罪に関係するような所作を「信頼」できるわけがない。
そこまでいかずとも、では子どもが毎日毎日、何十時間もゲームをやり続けていたりyoutubeを見続けていたりしたら、どうか?
あるいはそれに類似する、大人の「常識」から見て、心配な状態にあったら?

いきなりそれらを強権的に「禁止」するのは、(それも一つの方法であるにせよ)少なくとも「民主的」なやり方ではない。
じゃあ、放っておけば良いのか?
「せめぎ合い」が生まれるのは、そういうときでしょう。
いや、日々、子どもたちと接していれば、もっと些細なことでも、そうした「せめぎ合い」に直面します。

上述の例であれば、僕なら少なくとも「説得」は行うでしょうね。
あくまで「僕の考え」「僕の価値観」」であることを前提としながら、それでも少なくとも44年間は生きてきた人間の考えとして、もっと彼・彼女の可能性を伸ばすことのできる「暇つぶし」があるんじゃないかと「説得」はします。しかも結構、繰り返すかもな。

それは正解じゃないのかもしれません。少なくとも「子どもを100パーセント完全に信頼する」態度じゃありません。
余計なお世話ですもんね。「子たち達自身の選択」を歪ませる行為かもしれない。

それでも、僕はそうすると思います。
それが本当に良いことなのかと常に自問しながら。

その一方で、僕は自分と関わることになった子どもたちのことは、ヒルネットの子どもたちも、V-net(最近勝手にヨルネットと呼称中)の子どもたちも、ある意味で「100パーセント信頼」しています。
それは上述のスクールの先生と同じです。

どういうことか。
それは「今」「目の前」の行為や判断に疑問を感じてしまうことはあっても、彼・彼女たちの可能性、人間性を「完全に信頼」しているということです

この点について、少し、昔話をさせてください。
しかも、恥ずかしながら、これまた自分の家族のお話です。
30年前の僕が不登校少年だったことは、このブログでも何度も触れてきたことですが、実は不登校だったのは、私の家では僕だけでなく、なんと弟もでした。
いや、ほんとにひどい兄弟ですね。
母の苦労を考えると今でも胸が痛いです、いや、ほんとに。

しかも実は弟の方がこじらせてる期間はけっこう長く、10代後半はほんと実家にはいつも沈鬱な空気が流れてましたよ。
当時の「不登校」の問題は今なんかとはだいぶ環境が違う。
まあ、僕が住んでいたのが関西の田舎の、共同体意識の強い場所だったせいもあるかとは思うんですが、ほんと犯罪者か何かみたいな扱いでしたよね、いや自意識的には。

そんな兄弟をもつ母の心中はいかばかりだったか。
いや、ほんとに胸が苦しくて心臓が止まりそうです。

で、そんな兄弟をもつ母、当然、当時のものながら子育てカウンセリングなんかにも通ってたらしいんですね。
まあ後年聞いた話で、当時の僕たちはよく知らなかったんですが。ほんとタイムマシンに乗って戻って100発殴った上で5時間説教すべきですね。

それで、あるとき、これは僕の記憶では、僕というより弟の案件でカウンセリングの先生に相談したそうなんですよ。
その頃、弟はほんとにかなりやばくて、兄の自分の目から見ても、アレこいつチョットひょっこり死んじゃうんじゃないかな、とかって感じがする時期だったんですね。

カウンセラーと対面した母は、おそらくは涙ながらに、自分の子育てが間違っていたのか、息子に何をどうしてやれば良いのか、と相談したそうです。
そんな母に、当時のカウンセラーの先生はこう言いました。

「お母さん、息子さんを愛していますか?」
「もちろんです」
「彼が小さい頃、たくさんたくさん、彼を愛してあげましたか?」
「そうしてきたつもりです。彼がどう思ってるかは判らないけど……」
「大丈夫です」
その人ははっきり言ったそうです。
お母さん、彼はきっと帰ってきますよ。彼を信じてあげてください。信頼してあげてください。お母さんが彼を愛し信頼する限り、彼はきっと家族のもとに帰ってきます

弟は本当に帰ってきました。
大検を取り大学に進学、京都大学の博士課程まで行きました。
結婚をして息子二人に恵まれ、今ではもう立派なおっさんです。
そして、僕がもっとも信頼する男の一人です。

どうでしょう。
僕が言いたいのはこういうことです。
子どもを「完全に信頼」する、というのは、「今」「目の前」の彼・彼女らの幼いふるまいや判断を、ただ単に受け入れることを意味するのではない。
「今」「目の前」でどんなに馬鹿げた行いをしていたとしても、そんな彼・彼女らが、いつか必ず素晴らしい人間になる、立派にそれぞれの道を歩んでいくようになる、そのことを「信頼」してあげることなのだと。
そして、これはきっと、「不登校」とか「発達障害」とか、それらある種「特別」な話に限ったことではなく、子どもたちと接する大人たち、皆が持っているべき態度なのだと思います。

今日はちょっと途中で話があっちこっちに行っちゃいましたね。
まあ、それも良いでしょう。
それでは、それでは。

 

最近、「不登校」への風当たりがきつくないですか?

どうもどうも。
流石にすっかり初夏の陽気が感じられるようになってきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はなぜか今ごろ花粉症みたいな感じです。

さてさて、本日のお題なんですが、ちょっと日常の、というか僕の周囲の身近な話題から離れて、社会的というか世間的というかネットの一部界隈的というか、まあそんなところで話題になっていることについて書いてみます。

というのも、これはつい先日、高卒認定試験勉強中の生徒と話していたんですが、なんか最近、不登校の子どもあるいは保護者への風当たりが一部できつくないですか?
え、全然そんなことないけど? と思われる方もけっこういるかもしれませんし実際そんなことないのかもしれませんが、少なくとも最近、僕個人はいくつかそういう記事を読みましたし、あくまで主観的にはそういう感じを少し受けます。
まあ僕がたまたま最近ヒルネットの活動とか始めたせいでそういう記事によく出くわすだけという可能性の方が高いですが。

ただ、少なくとも一部でそういう言説が出始めていることは事実。
何でなのかなあと思っていたら、どうやらネットの一部で不登校の少年ユーチューバーが有名になっちゃって、それを気に食わない暇なチンピラおっさんたちが少年に一斉に襲いかかり殴る蹴るの暴行を働いた上に火あぶりにするという陰惨極まりない炎上事件があった模様ですね。
ほんとうに醜い大人たちです。

上記の事件を受けて、各種のメディアが「世間」に「忖度」して、色々と不登校にネガティブな解説を載せているというのが、最近の流れのようですね。
で、それらの記事の論調は概ね一緒。
だいたい不登校を許容しないわけでなない、と一応のエクスキューズを入れた後、でも学校でしか学べないこともあるだとか、多様な人間のいる中で社会性を身に付けるのは大事だとか、勉強どうすんだとか、不登校でうまくいった一部のやつをロールモデルにするのは危ないだとか、まあ正直言って80年代から言われていたことと大差ありません。

いや、もちろん古臭い言説に真理がかけらもない訳じゃない。
確かに学校でしか学べないこともあるし成功した人間を全てのロールモデルにするのは危ういことですし既存の学校でしか学べないことだってあります。
で、それを踏まえた上で言いたい。

そんなことおどれらに言われんでも最初っからわかっとるわ!!
こっちはそんなこと百も承知で、学校行けなくなったり学校行かへんって覚悟を決めたり学校行かせへんって腹をくくったりして何とかやっとるんじゃ。
おどれらが考えとるような「当たり前」のことは、こっちは千回も一万回も百万回も考え悩んだ上でこの結論になっとるんじゃ!!!

……失礼しました。怒りのあまりついつい柄の悪い言葉遣いに。

ですが、どうでしょうか。
不登校になるお子さんも、その保護者も。ホームスクーリングを選択する親御さんも、フリースクール等に通うお子さんも。あるいは心に深い傷をおったせいで、そこからまだ立ち直れていない少年少女も。
誰だって、上記のような「当たり前」のこと、「当たり前」「常識」の壁とぶつかり悩んだに決まってるじゃないですか。
以前の記事でも書いたことがありますが、ふつうの親なら誰だって最初から「不登校で全然問題ないよ!」という境地にはなかなか至れないものです。
「不登校」になることで、学ぶべきことが学べないのではないか。他人とこれからも上手くやれないのではないか。将来、ちゃんとした大人になれないのではないか……。
親も、そして何より子どもたち自身が、そんな「当たり前」の考え方との板挟みになって苦しんだに決まっている。
いや、現にこの瞬間も苦しんでいる子どもたちがいるでしょう。

そんな子どもたちや保護者の方々に対して、再びこれ見よがしに「当たり前」の考え方を「正論」としてぶつけることに何の意味があるのでしょう。
少なくとも、「社会的」に意味のあることとは到底思えません。

そもそも学校でしか学べないこととは何でしょうか?
社会性とは何でしょう?
確かに多種多様な人間と交わることに意味がないわけではない。学校特有の集団行動にも意味はあるのかもしれない。
ですが、それらは別に学校でしか学べないものではありません。
いや逆に言えば、今の世の中では、学校以外の場所の方が、より「風通しの良い」人間関係を学ぶことだってできるでしょう。
いや、そもそも小中学校の数年間の経験だけで、社会性や他者との関わりなどが学べるはずもない。
それは各人がそれぞれ成長の過程で種々の経験をしながら身につけていくものです。
その「経験」のなかには、「不登校」という経験だって入るはずなのです。

そして、はっきり言いますが、小中高校に「通わない」ことが、その後の人生の全てを決定するわけでもありません。まったく、ありません。
高卒認定試験を受けて、大学にいくことだってできる。
大学に行かずとも、資格等をとって専門的な仕事につくこともできる。
現にそうやって立派に大人になっていった「元不登校児」を、僕は仕事以外の場所でもたくさん知っています。
実際、それらの人たちは、何も特別な、「成功したロールモデル」というわけでもない、良くも悪くも、ごく「ふつう」の人たちです。
つまり、小中高の「たった数年」の不登校によって、「特別」な人間になるわけでもないのです。
それはごく「ふつう」の人生における、青春の一つの過ごし方なのです。

もちろん、なかにはそんな「ふつう」の道を歩めないほど、心に傷を追ってしまう少年少女がいることも事実です。
では、その心の傷は何によって生まれたのか?
その多くは、「当たり前」の考え方に苦しめられ、自分を不必要に棄損してしまった結果です。
「学校には行かねばならない」と苦痛を押し殺して、「社会性」とやらを身につけようとした結果、身も心もパンクしてしまったためなのです。

そうであれば、むしろそんな「当たり前」から「逃走」して、自分に適した学び方、自分に適した人生を模索した方が、どう考えても良いのではないでしょうか。

……さて、今日は書いているうちにだんだん怒り狂いはじめてきて、ちょっと公平さを欠いた書き方になっちゃったかもしれないですね。
って、いつもかな?
えっと、以下、宣伝です。
といっても大したことじゃないんですが、ヒルネットのFacebookをV-netのやつとは別に作りました。よろしければこちらも見てみてください。→ヒルネットFacebook

それでは、それでは。

桜と新学期と不登校と

どうもどうも。
ようやっと四月らしい暖かさのなか桜もすっかり満開をすぎて花を散らしつつある今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕は花見客は嫌いですが葉桜は好きです。

さて、桜が満開をすぎるこの時期というのは、なんといっても新学期。
新しいクラス、新しい学年、あるいは新しい学校。
多くの子どもたちは期待に胸膨らませ、などということはあまりなく、担任の先生への不安や新しいクラスメイトへの不満なんかをいろんな場所でもらしていることでしょう。
僕も先週、何件も聞きました。それこそおそらく60年くらい前の団塊世代少年少女時代から変わらぬ風景であります。
まあ、それでも桜吹雪の美景と相まって、春は何やら心浮き立つ季節ではあるでしょう。

が、なかにはそうでない人もいる、子どもだっている。個人の資質と関係なく。

またしても恥ずかしげもなく自分語りを行うならば、30年前の僕がそうでした。
いや正確には15歳の春以後の、僕。
学校行ってないんで新年度なんて関係ないんっすよね。
新しいクラスも学年も学校もない。
変わりばえしない日常。陰鬱な日常。桜吹雪だけが舞っている。

だから、春が大嫌いでしたね。

なんだか、自分だけが「何か」に置いていかれるような。
かつての級友たちが確実に「人生」を前に進めて行っているだろうのに、自分はある「地点」から動いていない。
いや、きっと動いているんだろうけど、その変化は自分にも他人にも、はっきりとは目に見えない。
そういう不安を感じる季節でした。

昨日、ふと春の訪れに心浮き立たせている大人になった自分を発見して、そんな大昔の子どもの頃の心境を思い出しちまいましてね。
さらに言えば、今この瞬間にも、きっとかつての僕と同じように、舞い散る桜を見ながら寂寞とした気持ちを抱いている少年少女がいるだろうことを思いました。

こういう小さな小さな哀しみは、人には大抵気づかれないものです。
いや、本人だって気づいてないかもしれない。
僕自身、上のことを明瞭に、言語化できるほどに意識化したのは、実は「新学期」を久しぶりに手に入れた大学1年のことでした。その時、初めて自分が何を喪っていたのか知ったのです。

「不登校」という状況に陥った際、本人が心に受ける傷は、こうした小さい傷の積み重ねなんですね。
いや、そうじゃない。
むしろ、そういう小さい傷が累積した結果が、「学校に行けない・行かない」という状況として現出する、というべきでしょう。

だから、どうして学校に行かないのか? という問いかけに多くの場合、答えることができないのです。
何か、積極的に嫌なことがあったわけじゃない。
いじめられたりしたわけでもない。
ひょっとしたら、友達と小さなトラブルはあったかもしれない。でもそんなことで? と大人は思うのです。
でも、本当はそんなことじゃない。
言語化できない数限りない「喪失」が彼彼女にはあるのです。
彼らはそれを知らない。それを彼らが語る「言葉」を見つけるのは、きっともっと先なのです。

先日、このブログでも記事にしたヒルネットの活動をついに開始しました。
もちろん、まだ生徒は全然いないんですけど、一人参加してくれた少年と、善福寺公園まで、お昼を食べに散歩へと出かけました。

公園の桜は満開でした。
穏やかな陽射し。水面に映える桜。ときおり鴨が目の前を泳いでいきます。

僕たちはそんな景色を見ながら、公園のベンチに座って弁当を食べました。
とても穏やかな時間でした。
口数の少ない彼が、徐々にいろいろな話をしてくれるようになりました。
ゆっくりと時間をかけて公園を一周して帰りました。

一緒に見た、今年のあの桜が、彼にとって良い思い出となってくれることを願っています。
それでは、それでは。

学校とは別の学び場

どうも、どうも。
すっかり春になったかなあと思ったら今週はめっちゃ寒い感じで始まった四月ですけれども皆さん如何お過ごしでしょうか。新元号はレイワ。なんかカタカナっぽいと思ったのは僕だけですかそうですか。

さてさて、三月は随分ご無沙汰しちゃいまして、更新もめっきり滞っておりました。すみません。
というのも、実は新プロジェクトの企画を詰めたりホームページを一人でこさえたりと大変だったんですな。確定申告もあったし。

で、新プロジェクトってなんやねんってことなんですが、それが以下。出来上がったHPです。

https://www.hirunet.com/
まだ多分、グーグルには反映してないんですが、見ようと思えば上のURLかV-netのHPから行けます。

つまるところ、学校とは違う別の学びの場所を作ろうという、そんなプロジェクトなんですな、これが。

まあ、不登校がどうしたとか学校がイマイチだとか勉強は主体的にやれだとか言ってるんだったら、自分でそういう学校以外の学び場を作ってみればいいんじゃないの?という企画です。
いや、ほんとはそんな軽いノリで考えたわけではないんですが、実際、前からこのブログでも書いてる通り、仕事ではもちろんプライベートでも学校教育のあり方にかかわる様々な問題について相談を受けておるうちに、徐々に徐々に、それこそ自分だけでなく働いているV-netという場所全体でも、そういう企画、つまりは学校以外の学びの場所を作る必要性みたいなものがあるんじゃないの、という空気が醸成されていっておったわけなのですな。

で、できたのが、これ。
ヒルネット、という名前はなかなかダサいですが、中身はもちろん超本気、子どもたちが楽しく主体的に「学び」を得られる場所にしたいですね。

詳しくはHPを見てほしいんですが、前から僕がここで書いているようなこと、つまり集団的でない学びのあり方とか好奇心を育てることの大切さとか、そういったことを中心的な考え方としてやっていく所存であります。

で、大事なことは、これは必ずしも、不登校の子どもたちだけの場所ではないってこと。

つまり、普通の公立あるいは私立学校に通いながらでも、参加できるような場所にしたいと思っています。
いや、もちろん学校からはみ出してしまった子どもがいつ来ても良い場所、というのが前提ではあるんですが、それ以外にも、ちょっと学校に疲れてしまった子が休憩できる場所であったり、あるいは単に学校以外にオモロくいろんなことを学ぶ場所であったりと、要はいろんな子どもがいろんな理由で、気軽く週に数回でも立ち寄れるような場所にしたいなあ、とこう思っているわけです。

というのも、いわゆる「不登校」ということを、何か特別な状態みたいにはしたくない。

このブログでも何度か書いてきましたが、いまだに「不登校」という事態に対する偏見は少なからず存在します。
いや、そりゃ僕が経験した30年前よりは、ずいぶんマシです。
30年前の兵庫県の田舎では、まじ完全人間失格扱いでしたからね、太宰の『人間失格』をタイトルだけで読むのを敬遠したくなっちゃったほどに。

それに比べれば、ずいぶんマシとはいえ、いまだに不登校になってる子どもは楽してるだけだとか家でゲームばっかりとか繊細すぎるのがどーだとか。色々言われる。
くだらねえ。
思いっきり紋切り型のステレオタイプな金太郎飴的固定観念ですよくだらねえ(興奮しすぎて意味不明)。

でも、これは考えてみれば、「不登校」だけでなく、「アスペルガー」も「ADHD」も「LD」も何もかんもみんな一緒です。
個別具体的な状況は全部捨象して、すぐにレッテルをはる。はりたがる。
「障害」だなんて酷いことを言う。
「問題児」だと「落ちこぼれ」だと。
「社会に出てやっていけないぞ」だとか「まともな仕事につけない」だとかって人の未来を勝手に呪う。

そんなことは、全部、うそです。

30年前に「不登校」で多分「ADHD」で軽く「躁鬱」でグレた不良の「問題児」で、おそらく完全「人間失格」だった僕も、今では結婚して子どももいるし何とか「社会」なるものの中でやってます。苦労もあるが、幸せです。

だから、何も悩む必要はない。

いや、悩むこと自体は悪いことじゃない。でも、それはその「選択」自体をネガティブに捉えて行うべきじゃない。
どうすれば、その「選択」が少しでも良い未来に繋がるか、ということに頭を悩ませるべきなのです。

そう。「選択」なんですね。
学校に行って楽しくやってたっていい。
しんどくなったら、ちょっと休んだっていい。
そして、別のところに居場所を変えたっていい。

それらの「選択」は全部、等価だと思います。
だから、僕は今度の「学び場」を、特に不登校の子どもたちだけの「特別」な場所にはしたくない。
どんな子どもたちも、区別なく受け入れたい。
「アスペルガー」だろうが「ADHD」だろうが関係ない。
楽しく自由に学びたい、という動機があれば、それだけでいい。

……いやはや、HPの紹介だけのつもりが、またしても熱くなって長々書いてしまいました。
まあ、色々書きましたが、最初はのんびりやっていくつもりです。
興味がありましたら、ぜひお問い合わせを。
生徒がたとえ一人でも楽しくやっていく所存。

それでは、それでは。