学校がつまんない理由(小学生の意見)

どうも、どうも。
2月、いよいよ花粉の季節となってまいりまして、教室でも皆が鼻声になりながら辛そうにレッスンを行っている今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はまだ鼻がかゆい程度です。

さてさて、毎回、軽めの記事を書こうと思いながらテーマが重くなってしまうこのブログ、今日こそは軽めの記事で行きたいと思います。
題して、なんで学校はつまらんのか。

いやいや。
いきなりむっさ重いテーマやないけ? どこが軽いねん。
と自分自身でも突っ込んでしまいますが、あくまで語り口はソフトに軽めに、松永さんのブログに倣うなら、あくまでジョーダンとして書き連ねていきたいと思います。

全然関係ありませんが、先週の読書のWSでは、星新一の「マイ国家」という短編を読んでみんなで国家について考えてみました。
ってそんな高尚なテーマを小学生で議論し作文を描いてもらうのは、ちょい無茶ぶりすぎるだろうということで(まあ議論はしたんですが)、その際、作文は「自分でマイ国家を作るなら」、というドラえもん的テーマにしてみたわけです。
で、そうするとやっぱり小学生、出てくる話題の一つが「学校をなくす」。
それで、聞いてみたわけなんですな。

「お前ら、なんで学校イヤなん? ちょっと聞かせてんか?」
「そんなもん、おもろないからに決まっとるやんけ」
「いや、せやから、どこがおもろないん?」
「せやなあ……、まず長すぎるな、時間が。友達に会えるのはええねんけど、夕方までずっといるんはしんどい」
「ああ、そらそうやなあ。僕かておんなじとこには6時間ぐらいしか、おれんもんなあ」
「いや、大人でそれはあかんやろ」
「お、おう……。じゃあ、君らはどれくらいなら、我慢できるん?」
「時間っちゅうか、まあ昼までやな。給食おいしいから食べたいけど、そのあとすぐ帰りたい」
「帰って何やるん?」
「そんなもん、なんぼでも遊べるやんけ。……というか、暇がほしい。時間がほしい」
「なんか、子どもらしない切ない答え返ってきたなあ……」
「あ、それで言うたら、宿題!」
「宿題? ああ、それはイヤやろなあ。まあ、でも復習が必要な勉強もあるからなあ」
「いや、それにしても、無駄やろっちゅう宿題が多すぎるねん!
「え、どんな宿題?」
「漢字、10回も書かせたかて、何にも覚えてへんっちゅうねん!」
「ああ、そりゃ、よう言われることやなあ」
「あと、自由に日記書けえ言われて、ちょっと世の不条理について自分の考え書いたら、『考えが偏りすぎデス』って赤で直されんねんで? どこの全体主義国家やねん! 自由に書け言うたんちゃうんか!?
「それは確かにヤバイっすね……」
「だいたい先生がイヤ! 先生がいや!」
「お、俺も教師やねんけどな、一応……」
「アホ! 冗談言うてる場合か!」
「……(なんで怒られたん?)」
「いい先生もおるねんけど、ひどい先生はヒドイ! 意味わからんことでめっちゃ怒ってきよんねん! それで反論するともっと怒りよんねん!」
「まあ、それはケースバイケースで……」
「いやいや、作文に自分の考え書いて、呼び出し居残りはヒドイやろ!」
「へ」
「さっき言うた話じゃ。世の不条理についてのワシの考え全否定なんじゃ。なんじゃい、この言論封殺は!」
「……」
「ワシは断固、このような全体主義的ボリシェヴィキ的な言論封殺には屈さへんでえ! 造反有理、革命無罪! 強権的支配階級を打倒すべし!!」

と、生徒がこのような革命精神に目覚めたのは嘘ですが、その他は大まかに言って事実です。

まあ要するに、まとめると、①拘束時間が長すぎる。②無駄な宿題が多い。③教師への不信、と言うことになるでしょう。
このうち、①については②の課題と同じく、「無駄な時間が多すぎる」と言う部分もあるようです。
また、③はまあ、昔からある課題ではあります。
ただ、最近の傾向としては、子どもの主観的な問題というよりは、実際に社会的価値観が多様化してきているなかで、「教師の常識」と子どもたちや各ご家庭の価値観が合わなくなってきていることもあるでしょう。
そうした価値観の多様化に対応するには、確かな知性に基づく柔軟な思考が必要なのですが、知っての通り、学校の教師は教師で近年のブラック企業的労働条件のために異常に疲弊しています。一部の優秀な教師をのぞけば、そんな知性を身につける時間も、柔軟に思考できる余裕もありません。

で、重要なのは、これらの不満が、いわゆる「特に問題なく学校に通っている子どもたち」から出ていることですね。
つまり、僕がいつも問題にしているような、学校特有のムラ社会的閉鎖性を敏感に感じて特別のストレスを感じているわけではないということです(いや、そういうストレスもあると思いますが、少なくとも意識化されていない)。
逆に言えば、そうしたストレスにも大きく左右される感性鋭敏なタイプの子どもは、より一層、「学校しんどい」という気分で過ごしているってことでしょうね。

実際、上記の子どもたちとは別ですが、昔、ある生徒と同じような話をしていたところ、「そもそも学校の教室で授業を受けるのがイヤだ! 勉強するのも公園とか広く自然のある場所で受けたい!」と言っていた子どももおりました。
こうした「感覚」などは、非常に象徴的ではないでしょうか?

ともあれ、では以上の小学生たちが、納得して楽しく通える学校があるとすれば、それはどんなものか?
上の不満をもとに考えてみます。
すると、

⑴最小限、有意義だと納得できる学びを得るのに必要な時間だけ居れば良い。
⑵宿題はないほうが良い。あったとしても、必要な復習のみ。
⑶教師とは保護者含めて密な関係性を築ける方が望ましい。
(♯)教室にこだわらず、広く移動し、種々の自然環境のもとで学習する。

どうでしょうか?
日本式「学校」というシステムにこだわらなければ、案外、実現できそうなもののように思いますが、そう考えるのは僕だけでしょうか?

まあ、いずれにしても、今日は軽めの話題。
これ以上は深入りしないことにします。
皆さんもが子どもたちの教育環境を考えてみる際の一助としてくれればと思います。
「マイ国家」ならぬ「マイ学校」を考えてみるのも面白いですよ。

それでは、それでは。

不登校でも問題ない

どうもどうも。
気がついてみれば、もう11月も半ば。あと1ヶ月半もすれば、2017年も終わっちまいます。驚くべき、はやさ! 2017という数字に愛着を感じる間も無く過ぎ去っていくぞこの一年! ほんと、はやすぎる。

さてさて、そんな2017年11月。
実はこの11日と12日、今年度第2回目の高卒認定試験が実施されました。
僕の生徒も一人が受験。結果はまだわかりませんが、文系科目は概ね大丈夫そう。理系科目は数学がちょっとミスったか、といった手応えみたいです。

この生徒については、以前のブログでもちょっと紹介してますが、なんといっても賢い。
いや、理系教科についてはよくわからないんですが、文系教科については呑み込みが早く、興味のあることについては、自分でも調べてどんどん知識を吸収していってくれます。
先日のレッスンで戦後日本史を解説中、「下山事件」のトピックが出てきたんですが、それを踏まえて「戦後史の闇」的な部分をちょっとばかり話したところ、興味を持ってくれて、早速、自分でも調べてくれてたみたいです。
この高卒認定を機に、その能力を十分発揮できるよう、人生の次のステップに徐々にでも進んでいってくれれば、と願っています。

この彼を含め、現在、僕はいわゆる通常の中学高校に通わずに勉強している生徒を4人ほど教えています。
不登校やオルタナティブスクール出身であったりなど、そういう人生を歩むきっかけは様々なれど、それぞれ個性的かつ優秀な生徒たちです。

そうそう、そのうちの一人はすでに8月の高卒認定試験を見事、全教科一発でパスして、今は大学受験に向けて勉強中です。
V-net以外の場所には今、特にどこにも通わず勉強している、そういうスタイルが面白いのか、なんかNHKがその生徒を取材しているみたいです。

前記の生徒が、いわばオタク的に知識を吸収するタイプだとすれば、この生徒はめっちゃ活動的。
政治がおかしい!と思えば、知らんうちにデモに出かけてるし、名古屋って街がおもろい!と思えば、すぐに名古屋に旅行にいきます。
知識を現場で「体感」して得ていくんですね。

こうした個性的な生徒たちを見ていると、なんでしょうか、教えているはずの僕の方が、けっこう元気づけられることも多い。

例えば、僕は教師ですが、一方、個人としては小3娘と4歳息子の父でもあります。
で、下の子はともかく、上の子は小学生、やっぱり学校関係では心配事も多いわけです。
一つの学期に一回は、なんらかのトラブルが持ち上がる。
あるいはトラブルがなくとも、たまに学校公開なんかで観にいくと、「あー。これは先生大変だなあ。。一人で20人以上を見るのはやっぱし無理やわあ。。。」という気分になるわけです。
いえ、何も娘の学校自体に文句があるわけではないのです。
ただ単純に、現代のように価値観が多様化したした時代にあって、20〜30人もの子どもに、「集団性」「同調性」を求めるシステムに無理があるなあ、と感じてしまうわけです。

で、そんななかでも結構、個性的、というか親の僕から見ても変人な娘。
そのうち「もう学校なんか行かねえよバカヤロー!」っと、特に思春期なんかになっちゃった時に言いだすんじゃなかろうか、と時々、妻と二人で少々不安に思ったりもしていたりしていなかったりもしていたりして(回りくどい)。
いや、ほんと、どの面下げて言うとんねんってことではあるんですよ。
なんつっても、僕が不登校だったんですから。
でもね。やっぱり親は親、娘は娘ですから、僕がOKだったことが娘も大丈夫とは限らない、いやいや中学ならともかくせめて小学校くらいは出て欲しいよね云々等々、なんだかんだと理由をつけて、「願わくは娘は俺より少しはマトモに」などとアホな願いと心配をしていたわけなんです。

それが。
最近のことなんですが、上記のような四人のたくましい生徒たちを教えているうちに、なんというか、心の底から、まあ別にほんとに子どもが学校行かなくなったとしても何とかなるわな、という気持ちになってきたわけです。
繰り返せば、僕自身が不登校。
ただ、その「個人としての体験」が、より「普遍的な経験」に裏打ちされてきた、というか。あるいは「親目線」でも心配なくなったというか。

そう僕に思わせるような、「人間的な信頼感」が、個性は違えど、彼らにはある。
つまり同世代の他の生徒よりも、大人に甘えるところ少なく、一人の人間として「個」を確立している。
そして、何より、それぞれが自分の長所を存分に伸ばしている。歴史研究であったり創作であったり政治思想であったりと、「知性」についても充実している。
彼らを見ていると、むしろ「娘も、あるいは息子も、こういうふうに育てたほうが良いのではなかろうか」とお世辞でも何でもなく、思うのです。
実際、彼らはみんな、本人にいく気さえあれば大学にだっていけるでしょうし、その後の人生も自分たちなりに切り開いていけるでしょう。

きっと今、このブログを書いてる最中も、あるいはこのブログの読者の中にだって、息子や娘が不登校になって心配し苦しんでいる親御さんがおられるでしょう。
あるいは、不登校になってしまうかもしれないと、子どもの状態を見て悩んでおられるご両親も。
上に書いたように、その心配はわかります。
でもね。
たとえ実際、学校に行かなくなっても、いくらでも道はあります大丈夫。
高卒認定もあれば通信制高校もある。青少年期の逸脱なんて、いくらでも挽回できるんです。
前も書きましたが、「ふつう」であって欲しいみたいな価値観さえ脱ぎ捨てられれば、子どもはかえってたくましく成長してくれることさえあるんです。
僕はそのことを、改めて自分の四人の生徒から学ばせてもらいました。

それでは、それでは。

いろんな生徒がいる話

どうもどうも。
前の記事からけっこう時間が空いちゃいましたね。毎年のことながら、やっぱり受験シーズンが近づいてくると、けっこう忙しくなってきちゃって、なかなかブログを更新できません。

いや、今、受験シーズンが近づいてくると、と書きましたが、実のところ最近はそれこそ十年くらい前と比べると、生徒の感じもいろいろ変わってきていて、単純に中高大学受験のためだけにレッスンを受講する生徒以外にも、国語や社会あるいはそれこそ勉強全般を深く学びたいって感じの生徒が増えています。いや、もちろん受験生もたくさんいるんですが、それ以外の生徒もけっこういる。実にバラエティ豊かなんですな。

例えば昨日は4コマのレッスンをやったんですが、朝一番の1コマ目は通信制高校に通う元不登校の生徒。この生徒とは普段は英語学習をやってるんですが、月一回だけお楽しみ&国語学習をかねてリベラルアーツ的学習をやっております。
先月は『隷属なき道』(ルトガー・ブレグマン著)という著作の一部を読んで、ベーシック・インカムについての解説を行い彼と議論いたしました。
で、昨日は過日に選挙もあったとうことで、ルソーの『社会契約論』の一部分を読んで、社会契約論の概念的説明を行ったのち、ルソーのいう「一般意志」についての僕なりの解釈解説を行いました。
こうやって書いてみると、なかなかすごいことやってるみたいですけど、あくまでこれは「お楽しみ」を兼ねてやっていること。ちゃんと生徒の関心に合わせてレッスンすれば、面白がって聞いてくれるし議論もできるものです。まあ上のような内容が「関心にあう」ってこと自体、大したもんですけどね。

その後、お昼を挟んでの午後一番のレッスンは、これまた高卒認定試験を再来週に控えた男子生徒。
再来週に試験ということで、国語の古文漢文の復習を過去問使ってちょこっとやったのち、日本史の近代史のレッスン。
過去問使ってちょこっと、と書きましたが、この生徒が古文に触れるようになったのは、この一年ほど前からのこと。漢文にいたっては、せいぜい2、3ヶ月前です。
にもかかわらず、この生徒は非常に頭が良くのみこみが早いのか、高卒認定試験の問題とはいえ、ほとんど間違えることがありません。
もちろん、古文に関しては一年とはいえ、けっこうやってました。と言っても文法がどうこうといったレッスンではなく、ただひたすら平家物語を読むというもの。
平家物語は内容が面白いのと読解も平安期のものに比すれば、やや易しいので読んでいたんですが、これがけっこう利いているのか、一、二回ざっと文章を読めば、よほど難しいものでない限り、内容が一応了解できるみたいです。
この生徒は日本史や世界史への関心もけっこう高い上に、英語もかなりできるので、再来週の試験の結果が個人的に楽しみです。

さて午後二発目。大学受験の生徒です。
彼女とは実は小学校からの付き合いです。なんと「音読サイコロ道場」を始めた頃に通っていた生徒。いやー時間がたつのは早い早い。
滑り止め的志望校の過去問を現代文、古文とこなしたんですが、先週同じ学校の問題にちと苦労したので警戒していたものの、今週はなんなくクリア。
ただ少々、癖のある問題が多いようなので、今後も受験用の「戦術」を立てていく必要がありそうです。
ただ、むしろ彼女の課題は現代文、というより難解抽象語が並んでいるような、法政治学や経済学等に関する論説文。
もっとも、こういう「難解論説文」を苦手にするのは、彼女だけの問題ではありません。小学校、中学校と国語が得意だったはずの子が、高校生くらいでこうした学問的文章に出会って苦労し始める、というのはよくある話なんですね。文学少女や少年でも、こういう文章、学問に関心がないと苦労している模様です。
一番良いのは、もっと早い、中学生くらいの段階から、種々の学問分野に関心をもって、やや難解と思われるような本にも触れて慣れていくことなんですが、まあ、なかなか個人の努力では難しい。それこそ周囲にそういう環境がないと本を手に取る機会もないかもしれませんね。
処方箋は個人によって様々ですが、まずは文章内の対立概念や、肯定的言説と批判的言説に留意しながら、全体の構造を文を読みながら頭の中で整理できるようになる必要があります。

さてさて、昨日の最後のレッスン。
こちらは小六女の子です。
実は彼女は去年、中学受験を指導した女の子の紹介でやってきた子。真面目で健気なとても良いお子さんです。
いえ、真面目で健気でいい子すぎるかも。。
というのは、女の子の場合は、「真面目」というのが、意外と能力を伸び悩ませるネックになる場合があるからです。
どういうことでしょうか。
前田先生だったかが、去年のブログで、ある算数が苦手だと思い込んでいる女子生徒の「呪い」を解くのが自分の仕事だった、というようなことを書いていました。
そうです。女子生徒は、特に小・中学生くらいの女子生徒は、この「呪い」に実にかかりやすい。
「真面目」なので、テストの成績や塾の先生等、周りの大人のいうことを真に受けて落ち込みやすいんですね。
もちろん、一回のテストなんかでそうはならないでしょうが、例えば塾に入って受験勉強を始めた頃に、何度かテストで悪い点を取って、しかも周囲から「国語がイマイチだね」的なことを言われたりすると、「真面目」な子ほどそれを真に受け「そうなのか。。私は読書も好きで国語も嫌いじゃなかったけれど、本当は国語ができない人間だったのか。。。。」などと悪い意味で暗示にかかってしまいます。その後、むしろその自己暗示のせいもあって悪循環にはまることもしばしばあります。
ですが、入試国語はある種のテクニックがないと、解けるものではないし、また受験勉強を始めた頃の子どもは、時間制限のある中で国語問題を解いたことのない子がほとんどです。ですから、要領のいい子でない限り、最初から点が取れないのは当たり前なんですね。
しかし、「真面目」な子はそう考えない。自分の努力が足りないから、能力が足りないから、成績が悪かったんだと思ってしまう。
ほんとはある種の「要領」が足りなかっただけなのに。
これが「不真面目」な男子であれば、「オレはまだ本気出してないだけ」とか「いや周りもこんなもんだったって母ちゃん怒りすぎ」とか「受験までには何とかなる」とかって考えて、良くも悪くも真剣にはとらえないんですけどね。
で、昨日の彼女も、まさに「真面目」であるがゆえに「呪い」にかかっております。
小説が好きな読書家なうえ、会話の受け答えもしっかりしている。話をきく理解力だって高い方。
レッスンが終わって彼女が帰った後、教室で別に授業をしていた松永先生が、思わず「彼女、頭いい子だねえ」っと感心していたほどです。
本来、国語ができない要素はない。
なのに、本人は「わたし国語できないんですよ」と、すぐ口にする。半ば謙遜だとしても、やっぱり自己暗示も結構ありそう。
彼女については、あと数ヶ月、国語のレッスンを通して、国語のみならず学習全般においてもかかってるかもしれない「呪い」を解くのが仕事になりそうです。

さてさて。本当は今日は、「国語ができないっていっても、いろんな種類の出来ないがあるんだぜ」って話を書こうと思ってたんですがね。
話の枕を書いてるうちに、それが本題になって、生徒紹介みたいになっちまいました。上記テーマについては、また今度。なんせ忙しいので、今日はこの辺りで、すみません。

それでは、それでは。

「子ども読書道場」を奥多摩でやってきましたよ

どうも、どうも。
いよいよ8月ももう終わりというなか暑いんだか涼しんだかようわからん天候が続いておる東京ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。9月もやっぱり暑くて雨なんでしょうか。

さてさて、そんな中、先週金曜日、「子ども読書道場」を奥多摩の「囲炉裏教室」で行って参りましたよ。
参加者は四人。
小6、小5、小4、小3と見事に年齢がばらけてしまいまして読む本に色々迷ったんですが、ここは鉄板、シャーロックホームズものにしました。
中心的に読んだのは、「最後の事件」と「空き家の冒険」。
ホームズが宿敵モリアーティ教授と対峙して、「ホームズ死んでしまったん?」と思わせながらの、無理やりの展開による復活!までを読みました。

男の子はやっぱりこういう探偵もの、冒険ものが「好物」ですよね。
合間にこの後の展開がどうなるか、犯人や動機は何かなど、ちょっとばかり話す機会をもうけるんですが、「僕はこう思う」「いや、意外とこうかもしんない」っと、大盛り上がりで話をしてくれました。
読書には、一冊の本を寝食忘れて一人読みふけるという楽しみ方ももちろんありますが、同時に同じ本を読んだ者同士がお互いに感想を言い合ったりして盛り上がる、という楽しみ方もあります。
「読書道場」では、そういう「読書家同士が色々ものを言い合う楽しさ」みたいなものも、ちょっとだけ体験してもらえればという意図もあったりするんですよね。

さて、午前中2時間半ほど一緒に読書し昼食後は、前田先生のサマースクールと合流。川遊びに興じました。
まあ、遊ぶ遊ぶ。泳ぐ泳ぐ。
相変わらず冷たい奥多摩の川水も何のその、いつものように河原で焚き火も始めると、川水で冷えた体を数分乾かし、再び川への繰り返し。
まあ、かくいう僕も、ついに河原の暑さに耐えきれず、服のまま川で泳いじゃいましたが。

その後、後半戦。
3時半から再び、読書と作文。
件の「空き家の冒険」を読み終え、いやーやっぱりホームズ生きてたねえ良かったねえでもちょっと展開が無理やりだったねえなどと感想を言い合いつつ、でも実際、作者のコナン・ドイルは先の「最後の事件」でホームズものを止めようとしてたんだけど苦情が殺到、今風に言えば「炎上」しちゃったせいでこの「空き家の冒険」を書いてシリーズを続けることにしたんだぜ的なウンチクを僕が述べた後、それぞれ作文を書いてもらいました。

作文の時間は前回の反省を生かして(前回はだいぶ時間がおしてしまったんですよね)、十分に時間をとりました。
サマースクールから合流のY君は「おいらは今毎日作文書いてるからメモなんかいらんぜ!」っとメモなしで作文に突入。他の3人は僕がインタビューする形で簡単なメモを作ってから作文を書き始めました。
その日の結果だけみると、やっぱり簡単にでもメモを作っておくと、「見取り図」があるぶん、実際に原稿に書く段になると早いし簡単みたいですね。
一人、「作文やだー面倒だー苦手だー」とのたまわっておった小4I君も、出来上がって見れば、けっこうちゃんとした、おもろい作文に仕上がっておりました。
皆さん、インタビューからメモ作っての「作文道場」式の作文法は、一見めんどくさいかもしれませんが、やっぱりけっこう有効でっせ。

そんな四人の感想で、共通していたのがホームズの「性格の悪さ」。
モリアーティの部下を「雑魚」と読んだり、自分より頭悪い連中を明らかに見下していたりと、圧倒的に「傲慢」なホームズのキャラクターを新鮮に感じたみたいでした。
これはその作文を読んだお母さんも同様だったみたいで、ホームズって意外と「英国紳士風」に思われてるんですね。

そして今回、個人的に嬉しかったのが、前回7月の「読書道場」に参加してくれていた子どもたちの反応です。
先のY君や、合流したサマースクール組の中の何人かが前回の「読書道場」参加者だったのですが、彼らが一様に前回読んだ「怪人二十面相」を「めっちゃおもろいよ!」と言って他の子にもすすめてくれたりしていたんですね。
特にそのうちの一人、G君は知らないうちに続編の「少年探偵団」を自分で購入し、サマースクールにまで持ってきて読んでいました。
こういうふうに「本を読むのってオモシロイな!」って思うようになっていってくれたら、僕としても「読書道場」をやっているかいがあるってもんです。

ということで、次回以後も、今度は休みの期間じゃなくても開講していきたいなあと思っております(時間がうまく調節できれば。。。できるのか?ほんとに?)。
で、できればほんとはもう少し、登場人物たちの心の動きというか、心理的な深みみたいなもののある物語を読みたいとも思ってるんですがね。
ただ、なかなか短編や中編で、しかも文句なくおもろい!といった感じのそういう小説が、僕が無知なせいか児童向け小説では見当たらないというか思いつかない。まあ活発というよりほぼ野蛮という形容がふさわしい男子諸君を念頭においてるせいもありますが。。。
もし、これ読んだ方で、こんな小説どうでっか?というものがあれば、今田までご一報ください。

それでは、それでは。

8月焚き火 in 奥多摩

どうも、どうも。
東京は夏だというのに毎日なんか曇ってばかりの日が続いていますが皆さんいかがお過ごしでしょうか。ひょっとして僕が暑さを呪い続けたせいでしょうか。

さてさて、この日曜日は恒例の焚き火の会 in 奥多摩に行って参りましたよ。
なんと今回、我が家は娘のみならず、たまたま東京に遊びに来ていた甥と姪も参加。
相変わらずアウトドアで全く役に立たない僕は引率者というより完全保護者の一人でした。松永先生、前田先生、レイ先生、すみません。

けれども当日はあいにくの天気。
冒頭にも書いた通り、東京は曇り続きで日曜も8月というより9月上旬の気温。
川の水は増量してるしめっちゃ冷たい。
足をひたしているだけで、大人は凍える冷たさです。

ですが。

まあ、子どもにはあんまり関係ないんですね。やっぱり。
関係なく、飛び込んでおりました。滝壺に。
最近、その楽しさを知ってしまった娘も何度もチャレンジ。ついには三年生にはちときつい、一番高い岩からもダイブしておりましたよ。親の心配子知らず。

午後からは前田先生サマースクール組も合流。
かつてないほどの大人数になって、まさに「子ども祭り」状態でした。
昼食の豚汁も焼きそばも完売。ほんと、大盛況でしたよ。

甥と姪も楽しんでくれたようで、川の上流に探検に出かけたり、女子チームを作って男子たちに(主に標的となった中学生に)水鉄砲で執拗に水をかけたり。
甥は松永先生持参の豚トロ焚き火串焼きがチョー気に入ったようで、翌日になってからも「あの豚トロ、めっちゃうまかったな。また食いたいなあ」と腹回りの贅肉を気にしながらのたまわっておりました(小5男子甥のお腹は既に中年のごとき貫禄をたくわえてしまっているのです。残念です)。

そんな中、僕が注目したのは小学生たちの喧騒を避けて一人黙々と勉強をする男の姿。
中学生Y君。何もこんなところまで来て勉強せずとも、とも思いますけど変わり者Y君はどこ吹く風。あくまでマイペース。
でも、まあ。わからんでもないですね。
「マエスク」が最たる例ですが、いつもと違う自然環境の中、ふと勉強したり読書したりしてみると、思った以上に集中できたりするもんです。
そんな僕だって、お盆中帰省していたんですが、親戚と行った有馬温泉や妻実家でなぜか本ばかり読んでましたよ。なぜか、普段より気分良く、集中して読めたりするから不思議です。

そんなこんなで今週も金曜日、明後日ですが再び奥多摩に行ってきます。
今度は奥多摩の「囲炉裏教室」で、8月の「読書道場」です。
まさしく、いつもと違う自然環境のなか、集中して読書できると良いなあと思っとります。

さてさて、今日はこの辺で。
さすが8月夏休み。多忙です。なかなかブログも更新できず記事も短くなっちゃいますね。
8月行った授業のことや作文のこと国語のこと、いろいろ書きたいことはあるんですが、間に合いません。またの機会に。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスペルガーっぽい」「ADHDっぽい」の「っぽい」にこだわる

どうもどうも。

さて先日ASDないしADHDにちょっとだけ関係ある記事を書いたら、なぜだかいつもよりアクセスが増え特にいつもは無反応なFBからのアクセスがえらい増えてました。
これはやっぱり世のお母さんたち、あるいは子育て世代にとってこういう問題が切実だからなんでしょうね。ウチ含めて。

実際、V-netに相談にいらっしゃる保護者の方の話なんかを聞いてみても、やっぱりこの数年、「うちの子はちょっとアスペルガー気味で」とか「いわゆるボーダーみたいなところがあって」などと話の最初にそういう断りを入れる方が増えているように思います。昔に比べて。
また逆にいうと、そういう「アスペルガー」とか「ボーダー」とかって言葉が人口に膾炙したってことでもあるんでしょう。

でも、だからこそ。
少し気をつけてみたいとも思っています。

私もまあ、こういう商売ですし前のブログでも書いたようにウチの子に多動的なところがあるのもあって、結構そういう関係の本を読んでます。
で、そういう本を読んだことのある人、いえ本じゃなくてもそういうネットの記事とかでもいいんですが、そんなのを見ると、きっとおそらく多くの人が、「あれ、これ自分にも当てはまるんちゃうん」と思うんじゃないでしょうか。
特にADHD、いわゆる注意欠如多動性障害のチェックリストとか見てごらんなさいよ。
私はもちろん、ウチの妻なんかも当てはまりまくり。
例えば私。
・じっとしていられない
・しゃべりすぎ
・ずっと着席していられない
・着席中手足もじもじそわそわ
・順番待ちが苦手
・静かに余暇を過ごせない
・相手の質問が終わる前に答えてしまう
とある本でのチェックリストですが、なんと9個中7個のヒット。超高打率。
ということで、きっと今の時代だったら確実に「診断」されてしまっているのでしょうが、さてさてでもそれって本当ですか?
いや、まあほんとなんでしょうが、でもここではっきり言っておくと、

「ボクは多動的であることで困ったことなど1度もない」

のですよ本当に。
なんか先週娘について書いたことと若干矛盾するんですが、まあそれが親ってものの業なのでしょうね。自分は平気でも子は心配。
でも本当にそうで、僕はきっと周りから見れば奇異な子どもだったんでしょうが、本人は別に大人になるまで自分の変なところには気づいていませんでした。少なくとも日常生活では。
それは先週、心配のタネとして話題にした娘もそうで、宿題に2、3時間かかろうと親が心配してるだけで本人はいたって平気な顔してます。

さらにいうと、子どもの頃の僕にはいわゆる「アスペルガーっぽい」ところも散見されただろうと思います。
つまり「周りの空気が読めず、こだわりが異常に強い」子どもでした(なお、この辺りの要素ももれなく子どもに遺伝している模様)。
ただ、実はちゃんと類書をいくつか読めば、この程度のことでアスペルガー症候群含むASDという診断は下せません。
これらはせいぜい「アスペルガーっぽい」という程度の、性格的偏向にすぎないものと思います。
でもそれですら、上のADHD的傾向とあいまって、もしか医者にかかっちゃったりしたら、きっと「診断」されて薬なんかを処方されちゃっていたかもしれませんよね。今の時代なら。

で、何が言いたいかというと。

「 ADHDっぽい」「アスペルガーっぽい」「ボーダーっぽい」。
この「〜っぽい」程度のことであれば、かなり多くの子どもはもちろん大人も当てはまっちゃうってことです。
自分自身はもちろん、周りの人々を思い出してくださいよ。
どこかしこに「っぽい」という人はたくさんいるんじゃないでしょうか?
ちなみに私はV-netの先生方含めて、知人友人の実に九割が当てはまります。ひどいなさすがに。

じゃあ、そういう人たちに医者の「診断」は必要か。薬物その他は必要か。
もちろん必要ありません。みんな立派な大人だし結婚もしてますし子どももいます。子どもはみんな変わり者かもしれませんが。
それぞれに子ども時代、それぞれの挫折があったことは確かでしょう。でも、それでも今のように「記号」のレッテルを貼られたわけではなかった。

もちろん。
実際には「〜っぽい」ではすまず、深刻な学習障害を抱えていたり、日常生活に困難を感じている子どもたちやまた大人もいます。
そんな子どもを抱えるお父さんお母さんの気持ちを考えると、本当に胸に太い針を刺されたような痛みを覚えます。「〜っぽい」子どもですら心配なのですから、そうした保護者の方々の心配は察するにあまりあります。
そうしたケースにおいては、きちんとしたメソッドに従った処方が必要な場合もあるかと思います。

ただ、そうでない、「〜っぽい」の場合はどうか。
いやもちろん「〜っぽい」であっても、そうした傾向も「飼いならせた」方がいいに決まっているので、いろんな教育メソッドに触れていくのは大切でしょう。
でも過剰な「診断」に基づいた心配をする必要はない。

あれ? おかしいでしょだって先週アンタ、心配なのはそういうことじゃなくて「今」の問題だとかって言ってなかった?
そんなツッコミが聞こえてきそうです。
そうなんですよね。
問題は、学校。というか日本人特有の、「空気を読む」必要が生じるような共同体的集団なんですよね。
これは学校だけでなく会社なんかの社会組織もそうなのかもしれません。

これについては、とりあえず「複数のコミュニティ」を持つこと、の大切さをここでは言っておきたいと思います。さしあたりは。
子どもであれば芸術でもいいし何でもいい。絵が好きなら絵画の教室でもいいし運動が好きならスポーツチームでもいい。もし勉強が好きなら、民間の教育機関でもいい。
その子の特性にあった、「居場所」となり得る習い事を見つけてあげるのがいいでしょう。
そんな「居場所」が他にあれば、学校にたとえ馴染めなくとも、その子なりに対人関係を学び、また自分なりの成長の仕方を見つけるはずです。
手前味噌ながら、V-netもそんな場所であれれば、と私などは密かに思っています。

学校以外に、自分のアイデンティティを確信できる「居場所」を持つ。
そうすることで、「集団生活に馴染めない」自分というものを相対的に捉えていって欲しい。
「集団生活が嫌い」っいう部分、個性が自分にはあるんだな、程度に思えるようになってほしい。
実際、それは個人の特性の一部分をなすにすぎないのですから。

学校なんてどうでもいい。
少なくとも学校をアイデンティティの場にしない。
そうなふうに親子ともに思え、また考え実行できれば、「〜っぽい」ことの心配なんて、大したことではなくなるんですけどね。
私自身、ほんとに自戒を込めて、思います。

では、今日はこの辺りで。
それでは、それでは。

炎天、焚き火

どうもどうも。
先週末あたりから急にものすごく暑くなってほんまに五月かいなって感じになっている今日この頃ですが皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
私はもうバテ気味です。

そんなバテ気味にもかかわらず、この日曜、恒例の焚き火の会に行ってまいりましたよ。
参加された保護者の皆さんもお疲れ様でした。楽しんでいただけたなら幸いです。

いや、何がお疲れ様でしたかってほんと、暑かった。
久しぶりに真夏のクソ暑さを思い出しました。
というか、もう最後の恒例温泉入る頃には若干、暑すぎて熱中症気味でしたよ僕は。なんか頭痛いし。
ま、そんな人は他にいなかったみたいなんで私が相変わらず体弱いだけなんでしょうが。

それどころか、子供たち。
そんなクソ暑い中、全くバテることなく今回も野球三昧。
皆が集まった10時半頃にはもう始まっちゃって、結局最後の「大焚き火」が開始される直前、つまり夕方5時か6時ごろまでズーーっと飽きずにやっておりました。
いや、すごいですね。

それこそ熱中症が心配になったりもしましたけれど、どうやらそんな心配も杞憂。
帰りの車の中まで元気一杯でした。
下掲の写真のように汗ダラダラ流してるんですが、全然平気みたい(なお、この写真は生徒本人が何故だか是非是非ブログに載せろと頼んできたのでようわからんままに掲載)。

合間に豚トロ食べたりソーセージ食べたり何故かタンドリーチキンみたいなやつ持ってきて食べてたり。そんなことしながらも、ずっと野球。
時々飽きたら「チーム」から離れて焚き火を弄ぶって感じ。

でも、面白いもんですね。
何人かの生徒はこの日会うのが初対面。
毎回のように参加してる「チーム」のメンバーじゃないのに、放っておくと最後には何故だかメンバーの一員になって、しかもそんなに野球うまくない子も混じって、みんなで遊んでおりました。
それはまるで三十年前?昭和の空き地なんかで行われていたような光景と同じもの。
なんだか懐かしくなっちまいましたよ。
社会も代わり子どもを取り巻く環境もずいぶん変化しましたけれども、やっぱり何か本質的なもの、子どもたちの中にあるキラリと光る仲間を作りこすれ合い成長していく元となるようなもの、そんな何かは変わることがないんだろうなあなどと感じてしまいました。

さて、それでもやっぱり暑すぎた。
次回、焚き火は多分ですが奥多摩でやることになりそうです。
それでは、それでは。