ぼーっとする時間を大切に

どうもどうも。
皆さん、明けましておめでとうございます。ってもう全然正月気分も遠くなってるわけですが、そんな遅ればせながら的なことを書くのも、このブログの毎年恒例ということで。

さてさて、というわけで本年初めのブログ記事。本来なら今年の抱負とか何かを書くべきかもしれないんですが、残念ながらというか別に残念でもなんでもないんですが、特にそうしたものはパッとは浮かばない。
というか、そんなこと考えて一年の初めを迎えたことなんて、これまで一度もなかったんですが、ふつうはやっぱり多少なりともそんなことを考えながら年を越したり迎えたりするもんなんですかね? いや、でもほんとにほんと?

でも、まあ他の人のブログとかネットの記事とか見てると、そんな内容のものがちらほら目に入ってきて、そうか、じゃあせっかくなので俺だってなんか抱負的なものを述べたいなあなんてことを思って思って考えながら、結局、今日に至る。
昨年の反省を生かしつつ、抱負とまではいかずとも今年一年少し大切にしたいなあというようなものはないもんだろうか。
で、昨日あたり、思いついたのが、これ。今年の抱負。というか、まあ少し大切にしたいこと。

それは、ほんの少し「ぼーっとする時間」を今年はつくる。
ゆっくりする。休む時間をつくる。

 

いやいや世間一般の皆さん、とりわけ比較的ブラックな環境で働いている方々なんかと比べれば、僕なんか全然働いてないですし、むしろもっと働けよ的なプレッシャーを日々我が家の勘定奉行兼総理大臣でもある奥さんからかけられておるわけなんですが、それでも主観的には昨年ずうっと忙しかった。
というわけで、今年は少し怠けたい。
っという本音は別にして、僕が言いたいのは物理的に休日を増やすとか仕事をセーブするとか、そういうことではないんですね(ただ繰り返せば、本音では怠けたい)。

実際、ヒルネットの活動を今年はますます頑張ろうとか、そのためにまた各所に見学研究に出かけようとか、読書WS等の土曜グループレッスンも盛り上げていこうとか、仕事への意欲は変わらず旺盛でありたい(が、しつこく言えば、もう少し怠けたい)。

 

ただ、一方で、頭の中に、どこか無駄なスペースというか、何も働いていない部分というか、意識的にボーッとするゆとりを持っていきたい。
次から次に何かに追われまくるのではなく、というか追われまくる部分もあっていいんですけれど、そういう中でも、一部はしっかりと休んでいる、頭の、あるいは心のゆとりみたいな部分を持っていないとダメなんじゃないかなあと思うわけなんですな。

ぼーっとする時間。

これ、実はけっこう大切な時間だと思うんですよね。
いつだったか昨年、ネットの記事で、おおたとしまささんという教育ジャーナリストの方が、子どもにたくさん習い事をさせるのもいいけれど、実は子どもの才能や能力、その創造性を花開かせるためには、子どもにぼーっとしている時間、休憩している時間を持たせてあげることが大切だ、というような記事を書いておられました(この方は松永先生の知人でもあるので、時折ご著書など拝見させていただいているんですな)。

これは実際、大人も子どもも等しく当てはまることなんじゃないかなと思います。
何もすることがない時間。
いや、実際には「何か」やらなくてはいけないとしても、日常の中でふと、目の前の現実から離れて、どうでもいいようなことに「アタマ」を向ける時間。

電車の中でスマホなんか見ずにぼーっと車外の風景を眺める時間。
お風呂で湯につかりながら、そこはかとなく取り留めのないことを考える時間。
仕事帰りの夜道に何となく星もない空を見上げる時間。

こういう時間を大切にしたい。
なぜなら、実はこういう時間にこそ、様々なアイデアや、物事への好奇心や、何かを作ろうという想像力が生まれてくるからです。本当に。

自由な発想や好奇心、そして創造力が、目の前の現実に追われまくっていて生まれるわけがない。
目の前の現実に対処するのにいっぱいいっぱいの脳ミソに、そんなことを「思いつく」ゆとりはない。
だから、たとえどんなに忙しくても、想像力や好奇心を大切にしたいならば、あるときそうした「現実」を括弧にくくって、全然違うところに脳ミソを持っていく必要があるんだと思います。

そういう意味での、「ぼーっとする時間」を、忙しい中でも大切にしていきたいと思うわけです。

 

そして、繰り返すなら、これは子どもたちを取り巻く環境についても言えることだと思います。
しかも、子どもたちに関して言えば、この「ぼーっとする時間」はもっと長くてもいい。
日常のふとした時間なんてものじゃなく、一年とか、二年とか、そんな長いスパンでの「ぼーっとする時間」があってもいい。

たとえば一年間、勉強に、あるいは習い事やスポーツに一生懸命だった年があったなら、そのぶん別の一年は、「ぼーっとする」一年であったっていいじゃないか。僕は最近、そう思います。

その一年は、はたから見れば「何もやってない」一年に見えるかもしれません。
しかし、子どもたちにとって、その時間は、自分の人生を生き抜いていくためのエネルギーを貯める大切な期間なのかもしれない。
新しいチャレンジに必要な養分を吸収し、新しい想像力をはばたかせるのに必要な一年なのかもしれない。

もちろん一年でなくともいい。人によっては、その「休憩」が3年、4年と必要なのかもしれない。
学校で、塾で、勉強で、あるいは人間関係で疲れた少年少女のアタマや心に、新たに感受し想像する力が宿るためには、人によってはそれぐらいの時間が必要かもしれません。
実際、恥ずかしながら僕なんて、十代のほとんどを「ボーッとして」過ごしておりましたから。

 

ともかくも。
今年一年は、こうした「ぼーっとする時間」、現実とは違う何かに目を向ける時間の重要性を考えていきたいですね。いや本当に。

それでは、それでは。

 

 

 

学びは「体験」と「仕事」から

どうもどうも。
ようやっと秋が訪れるのか?という半信半疑な気分で過ごす10月第2週目の現在、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はちょっと多忙すぎですどうしましょう(って知るかですよねハハハハハ……)。

さて、今日のお題は久しぶりに単純に「学ぶこと」について。

ところで、突然、宣伝ですが、僕が昼間にやっているヒルネットという「スクール」では、いわゆる「勉強」は強制しません。
かといってサドベリースクール的に、完全に「自由」というわけでもなく、いわば僕が「巻き込む」ような形で、色々な体験をしたり種々の物事を考えてもらったりはしてもらってます。
フィールドワークに行くことや、特定のテーマについて対話すること、「散歩」すること、そしてまた場合によっては「ヘイ!Kクン! 今日は日本の地理について学んでみようYO!」ってな感じで誘って「勉強」することもあります。

でも、やりたくない子はやらなくていい。
今日はちょっと気分が乗らないって日は、自分の好きなことをしていてもいい。
各自がその日のプログラムを自分で決めるのが「原則」です。

こういう形になっているのは、そりゃ古典最新の教育書を読んだり種々の施設を見学させてもらったりと色々準備段階で考えていたことも反映されてますが、結局は通ってくれている子どもたちの「個性」に合わせてつくりあげられていってる部分が大きい。
「アタマ」で考えていた通りにならないのが「人間」を相手にする教育ってもんなんですよね。良くも悪くも。

閑話休題。
でも、まあそういう「自由」な状況から、主体的な「学ぶ」姿勢、力みたいなものが生まれていくには、当然、時間がかかるわけです。
小・中学生ぐらいの年齢なら特にそう。

でも、実はこれって「ふつうの学校」に行っていたり、あるいはヨルネット(V-net個人レッスン)に通ってくれている子だって同じことなんですよね。
一日学校で教室に座っていたって、やる気のない授業、教科については、アタマの中で宇宙旅行に出かけていれば、何も入っていません。
「真面目」な子は、それでもテストや宿題を頑張るかもしれないけれど、そうでもない子は何にも「学んで」などいません。
酷い場合は、ただ「情報」を「苦痛」とともに受け取っているだけです。いや、情報すら入っていないケースが多いかも。。。。

個人レッスンの場合にだって、学ぶ気持ちゼロみたいなお子さんの場合は、大変タイヘン工夫が必要です。
そりゃ、学校やスクールと違って、一応「勉強」することを「目的」に通ってくれているわけだから、最初から「やる気ゼロ」みたいな子も珍しいわけですけど、それでも基本、小・中学生は親に言われてきてるわけです。場合によっては仕方なく。
だから、そんなに「主体的」なわけではやっぱり、ない。

そういう意味では、環境が「自由」であろうと、「強制」されていようと、主体的な「学ぶ力」みたいなものを養うのは、どうであれ難しいことに変わりはないわけなんですな。

だから、当然、子どもたち一人ひとりに合わせた工夫が必要なわけなんですが、そのケースバイケースを全部ここに書ききれるもんじゃない。
ただ、そのなかでもやっぱり核になるような大切なものがあるとは思います。

その一つが、やっぱり「体験」です。
例えば、地理や歴史はさっぱり覚えていないのに、植物や動物、果ては恐竜、古生物のことについては大人よりはるかにたくさんのことを知っている。
あるいは逆に、算数の計算は大っ嫌いだけど、歴史に関することを話すと目をキラキラさせて話に聞き入る子どももいる。

そうした子どもは、自然環境豊かなところで育ったのか。幼稚園のころ、たくさんお散歩に出かけたのか。昔、遊びにいった動物園がとっても楽しかったのか。
それとも歴史に関するマンガを読んで、実際、お城を見に出かけたのか。田舎のお祖父ちゃんの古い家に興味を持ったか。それとも、古い軍刀や日本刀を見たことがあったのかもしれない。

何がトリガーになっているのかは、はっきりはわかりません。
ひょっとすると、それは上記のような判りやすいものではなく、親も気づかないような些細なものかもしれない。
子ども同士の「遊び」のなかにあった小さな出来事かもしれない。

しかし、そうした幼少期、少年期の「遊び」の「体験」がきっかけとなって、またそれに関する書物等により「体験」が「追体験」される歓びを知ることによって、子どもたちはいつの間にか、ある特定に興味関心についての「博士」になっていくのだと思います。

主体的な「学び」とは、そういうものではないでしょうか。

そして、そういう「学び」を得た子どもたちは、長ずるにしたがい、「苦手」なジャンルのなかにも、関心の芽を育てる「力」を身につけていきます。
少なくとも、この二十年ほどの間、僕から見て「優秀」だと思える、今や立派な青年となった子どもたちは、皆そうでした。これは断言できることです。

そして、もう一つ。大切なこと。
それは「仕事」です。

「仕事」といっても、強制される「作業」じゃない。
だから、それは僕たち大人が(人によっては?)イメージする「仕事」とは別のものです。
例えば、英語の「Work」という言葉は、もちろん「作業する」という意味もありますが、もう少し広い意味で使われることも多い単語ですよね。
「作品」とか「研究」とか、「取り組み」みたいなニュアンスでも使います。

例えば、文章を書く練習をするのに、ただ「作文を書きましょう」と言ったって、やる気が起きるわけがない。
なぜって、そこには目的がないから。文章の先の読み手もいない。誰かを楽しませようという動機もない。
そんな文章、誰が書きます?

でも、そうじゃなくて、「小説」を書くのなら? ブログを更新するのなら?

このブログだってそうですが、どこかの誰かが読んでくれている、という確信があるから書いているわけです。休み潰して。
そんなに読者は多くなくとも、月に1000人くらいは読み手がいる。そう思うから書いています。

子どもだって同じでしょう。
誰かのための、不特定多数の読者のためのブログなら、書く気も起きるかもしれない。
小説は?
じゃあ、それをきちんとどこかの賞に応募するのが良いかもしれない。
今の時代なら、そういうサイトに投稿するのもいいかもしれない。

実は最近、ヒルネットでは、子どもたち、そして僕らスタッフ含めて、「坊ちゃん文学賞」というショートショートの文学賞に応募しました。
これも子どもたちと相談して決めたことですが、どうせ書くなら、確実に読んでもらえる文章を書こう。その点、賞なら下読みの人含めて、必ず誰かに読んでもらえるわけです。

しかも、これはほんとに「仕事」なんです。
この賞の賞金は大賞で50万円! これを獲ろう。獲って賞金で沖縄にみんなでフィールドワークに行こうじゃないか!というのが最初の企画でした。
もちろん、みんな本気で賞金が取れると思ってるわけじゃない(と思いますが。。)。
でも、そういう、なんというか明確な「ゴール」というか「目標」があるのが、「仕事」において重要な要素だと思います。

実際、これはヨルネットで教えている高校生の話ですが、彼は昨年、中学三年の折に、学校課題で出した松本清張の感想文が、なんと松本清張記念館主催の賞を受賞、賞金図書券3万円をゲットした上に家族博多旅行交通費を手に入れることになりました。
そのおかげで、今年の夏にはやはり松本清張の感想文を、今度は課題とは関係なく仕上げ、さらに別にショートショートの小説二本を、これまた学校の「強制」とは無関係に書き上げ応募しています。
この彼は、小学校時代、都立中高受験の作文が苦手だったために習いにきた生徒でした。
その彼が今では、まさに「主体的」に文章を書くまでになったのです。
それは、彼が文章を書くことを、作業ではなく「仕事Work」=「作品」に取り組むことだと理解してくれたからなのです。

また「仕事」には、個人ではなく、集団で行うものもあります。
これまたヒルネットの話で恐縮ですが、僕たちは、この10月の20日、杉並区が主催する「杉並舞祭り」というお祭りにキャロムを中心としたゲームとアクセサリー販売の屋台を出店する予定になっています。
これの企画、内容も皆である程度話し合って決めた(というか決めている途中)なのですが、やはり例えば、アクセサリーを作るのが苦手な子もいれば、そういう場所で赤の他人(しかも相手も子どもだったりする)と話し販売するのが苦手な子だっている。
でも、そんな子たちも、それが皆で決めた「仕事Work」=「務め、取り組み」ならば、なんとか自分なりに何か作ろうとするし実際、みな販売参加するのを楽しみにしています。
手前味噌な話ではありますが、家庭科の時間の裁縫のような強制された「作業」とは違う、「仕事」の喜び、協働することの「学び」が確かにここにはあると思います。

このように、目的のない強制された「勉強」とは違い、自分から何かしらの目的、目標を定めて行う「仕事」には、やはり何かしら主体性の芽を育む力がある。
それは文章を書くような、直接的な「勉強」にかかわるケースもあれば、お祭り出店のように、勉強というよりは、社会的な協働性のような、間接的な「学び」を得るものもあるでしょう。また「手作業」をすることによる創意工夫の「学び」でもあるでしょう。
しかし、そのいずれもが、現実にこの社会に出て生きていくために必要な「学び」だと思います。

そのような「学び」を主体性をともなった形で得られるようにする、その一つのフレームが、この「仕事」という、これまた一つの「体験」なわけなんですね。

どうでしょうかね。
まあ、前回も書きましたが、私だってまだまだ修行中の身です。
今回は、「体験」と「仕事」という二つのフレームから書きましたが、もちろんこれら以外にも、子どもたちの主体的な「学び」を引き出す工夫はたくさんあると思います。
このブログでも、それこそ僕自身の「体験」のなかで、そういうものに気づいていけたなら、またご紹介しようと思います。

それでは、それでは。

 

「体験」が「学び」の種を作るということ

どうもどうも。
いよいよ夏休みが終わりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

前回のブログでも書きましたが、新学期の始まりというのは、どんな子どもにとっても憂鬱なものです。
子どもから何らかの「サイン」があったならば、「傷が浅い」うちにそれを受け止めてあげられると良いですね。まあ、なかなか難しいのですが。

さて、僕の活動としても、明日からヒルネットの活動再開です。
ところで、このヒルネットですが、そもそもこの活動を行おうと思ったきっかけは、実は「不登校」の問題だけではなかったんですよね。

いや、もちろん、数年前からそういう相談が増え、またプライベートでも何件か「不登校」「まだら登校」の悩みについて聞かされるようになっていたのは事実です。
だから、直接の動機がそこにあったのは間違いないんですが、ただそれだけでもない。

実は、ある意味でもっと別の問題として、ここ数年、ある疑問がずっと頭の中にあったわけなんですな。
それは、「どうして、子どもは学校に通いだすと、こんなに〈勉強〉を嫌いだすのだろう?」という疑問でした。

まあ正確にいうと、「学校に通いだすと〜」なのかどうかは判らないんですが。
しかし、とにかく自分の子ども含め、幼稚園や小学校1年生くらいの子どもは、むしろ〈勉強〉が好きとさえ見えるくらいなのに、中高学年くらいになると、ほぼ完全に「面倒なもの」になっている。

「3足す4はね、7なんだよすごいでしょ!」「僕ね、自分の名前漢字で書けるんだよ!」「夏休み旅行したこと作文に書いたんだよ読んでみて!」
まだ小さい子どもたちが、こんなことを先生に、あるいは両親その他の大人たちに告げている図を誰だってみたことがあるはずです。

実際、子どもというのは、本当は学ぶことが好きです。
特に自分が興味を持ったことを学ぶことは大好きです。しかも大人では太刀打ちできないくらい、吸収も早い。
そして、この点については年齢が上がっても同じかもしれません。自分が好きで、関心を持てたことについては、彼らは自分でそれを調べ、自分でそれを学びます。
それは、人によっては「恐竜」のことかもしれないし、人によっては「鉱石」についてかもしれない。あるいは「電車」のことかもしれません。

ところが。
これが学校の〈勉強〉となると、途端に「重荷」以外の何ものでもないみたいになってしまう。

これは一体何でなのか?

「強制」の有無、ということが一つの原因であることは間違いないでしょう。
毎日の「宿題」、「受け身」の授業、気分が乗らないときでも机に座り続け目の前の計算ドリルはこなさなきゃならない。そういう「作業」をこなす毎日。
こういう強制された「作業」を面倒に感じるのは、大人だって同じでしょう。

では、一切の強制がなければ、いいのか?
何も強制されぬまま育てられた子どもは、幼少期の、ある種無邪気な知的好奇心を保持し続けられるのでしょうか?

これはある部分ではイエスと言えるし、またある部分ではノーとも言えます。
なぜなら知的関心の持続的な涵養は、その子どもの置かれた環境、即ちその環境から与えられる連続した体験のあり方によるからです。

難しい言い方をしちゃいました。
簡単に言えば、たとえば周囲に自然環境が溢れ、種々の生物・動物と触れ合う機会が多く、またそれらの生物、たとえば花の美しさや薬草の効用、動物の生態についてよく話されるような環境にいたなら。
その子は自然と、成長とともに自然科学への好奇心を深めて行くことになるでしょう。
逆に、ゲームやテレビといった間接的体験ばかりの環境に囲まれたまま少年期を過ごした場合。その子の関心は当然「メディア」に特化したものとなるでしょう。

誤解なく言っておけば、僕は後者が悪いとは思っていません。その「メディア」に特化した体験から、むしろ天才プログラマーが生まれないとも限りません。
単純に、体験のあり方が、その子の知的な関心のあり方を決めるというだけです。

さらに言っておくと、10代半ばの思春期少年と、10歳未満の子どもでは、環境の受け取り方、つまり体験の質も変わるに違いありません。
たとえば、それこそ不登校になって昼夜逆転し四六時中グロテスクなホラー映画をみている環境が良いはずはありませんが、十代の一時期には必要な場合もあります(はい、すみません、これは15歳時分の僕です)。

話がずれました。
要は強制があろうとなかろうと、知的関心を刺激する経験がある程度与えられているかどうか。
また、その経験が次の経験を呼び込むような形で、連関する形で与えられているかどうか。そういう環境があるか。

そうした理想的な条件が整う中で、少年期の学ぶことへの情熱は持続するのだと思います。
いや、いま「理想的」と言いました。
実際、普通のご家庭で、そんな環境を常に持続させることは難しいでしょう。
自然環境に恵まれた体験がたくさんあっても、今度は歴史や社会的な事象にまるで好奇心を持たないということだってありえます。

ただ、僕はある程度、そういう形でも良いと思っています。
何でも、オールジャンルにできる必要はない。
ただ、関心があまりに狭められていない限り、種々の体験からの刺激により、一つの関心がまた別の関心へと扉を開く、そういうことはあると思います。
現に僕は30代まで、理数系の学問には何ら関心を持っていませんでしたが、中年になってから、それこそ仕事含め色々な体験の結果、強く興味を持つようになりました。

いずれにせよ、椅子に縛り付けられたまま黙々と計算ドリルを解くような「作業」から、数学的な好奇心が生まれるとは思えない。
歴史の年号をただ暗記するところから、現実の日本社会への関心など生まれない。

そうではなく、実際にかつての遺跡を見て、変わってしまった町を歩き、現実の体験からから様々な空想をめぐらすなかで、知的な関心というものは生まれるのではないか。
そしてまた、その過程で生まれた疑問や関心について調べる中で、知性というものは育まれるのではないか。

僕がヒルネットを始めようと思ったとき、一方にあったのはそういう思いでした。
果たして自分が思い描いた通りに物事が進んでいるかはわかりません。
いえいえ、はっきり言って「理想」通りにはいつだっていきません。それが「現実」の「体験」なのです。

それでも、しんどいながらも毎週フィールドワークに子どもたちを連れて行きます。
今年の秋には「お祭り」の屋台を出して、子どもたちに実際に「仕事」をしてもらおうとも思っています。
教室のなかだけでは味わえない「体験」をたくさんしてもらおうと考えています。

それらのうちの一つでも、彼らに「学び」の芽をつくってくれたならば、それだけでもやって良かったと思えます。

それでは、それでは。

追伸
最近、というかついさっき、インスタグラムも始めてみました。
と、言いつつ、実はよくわかってません。
https://www.instagram.com/?hl=ja
気が向いたらフォローしてみてください。

 

 

 

子どもを信頼するということ

どうもどうも。
なんかようやっと春らしくなってきたなと思ったら今度は急に夏というか真夏やんけという暑さに見舞われておる今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今年も夏は酷暑なんでしょうか死にそうです。

さて、実は先日、とあるサドベリー教育を実践しておられるフリースクールへと見学に行ってまいりました。
これはヒルネットの活動の参考にさせてもらいたいというのはもちろんですが、同時にそういう小さなフリースクールの「輪」をつくることで、何か協力しあえることが将来あるかもしれないと、漠然と考えているからでもあります。

まあ、それはさておき、そのスクールの理念や活動は実に参考になるものだったのですけれども、とりわけ印象に残ったのがスタッフの先生の言葉。

それは僕が、子どもたちの学習その他に対する自主性をどこまで信頼すべきなのか、どこまで大人の「お節介」的介入があったほうが良いのか、そのバランスに苦慮することがある、という話をしたときのことでした。その先生は、こう答えました。

「僕は子どもたちをなるべく信頼したいと思っている。だけど、100パーセント完全に信用しているかといえば、それは嘘だと思う。もっといえば、『子どもたちを100パーセント信頼しましょう!』と標語的に唱える人たちは、実のところ欺瞞的であるか、あるいは実際に子どもと関わっていないかのどちらかだと思う」
「繰り返すなら、僕はいつだって子どもたちを信頼しようと努力している。だけど、どうしたって完全には信頼しきれないと感じてしまうときだってある。結局は、そのせめぎ合いのなかにしか、答えはないんじゃないかな」

僕はこの言葉を、教育者として非常に正直な、そして大切な考え方を表している言葉だと思いました。
というのも、サドベリー教育というのは、まさに子どもたちの自主性をラディカルに追求した教育のあり方だからです。
だから、ふつうなら「100パーセント信頼すべきです」と、それこそ標語的に答えたっておかしくはない。でも、その先生のおっしゃる通り、それはどこか欺瞞的ですよね。

じゃあ、その先生がスクールに在籍している子どもたちを信頼してないかというと、全くそんなことはありません。
それは、むしろ子どもたちがその先生を信頼し友人のように接している態度からはっきり理解できるものでした。
つまるところ、その先生は「せめぎ合い」を感じながらも、子どもたちの将来を、その人間性を、確実に「信頼」しているのです。

以上のことを、僕なりに理解すると、こうなります。

子どもたちが「今」「目の前」で行なっている表面的なふるまいや、いくつかの判断を「完全」に信用することはできない。
たとえば極端な話、軽微でも犯罪に関係するような所作を「信頼」できるわけがない。
そこまでいかずとも、では子どもが毎日毎日、何十時間もゲームをやり続けていたりyoutubeを見続けていたりしたら、どうか?
あるいはそれに類似する、大人の「常識」から見て、心配な状態にあったら?

いきなりそれらを強権的に「禁止」するのは、(それも一つの方法であるにせよ)少なくとも「民主的」なやり方ではない。
じゃあ、放っておけば良いのか?
「せめぎ合い」が生まれるのは、そういうときでしょう。
いや、日々、子どもたちと接していれば、もっと些細なことでも、そうした「せめぎ合い」に直面します。

上述の例であれば、僕なら少なくとも「説得」は行うでしょうね。
あくまで「僕の考え」「僕の価値観」」であることを前提としながら、それでも少なくとも44年間は生きてきた人間の考えとして、もっと彼・彼女の可能性を伸ばすことのできる「暇つぶし」があるんじゃないかと「説得」はします。しかも結構、繰り返すかもな。

それは正解じゃないのかもしれません。少なくとも「子どもを100パーセント完全に信頼する」態度じゃありません。
余計なお世話ですもんね。「子たち達自身の選択」を歪ませる行為かもしれない。

それでも、僕はそうすると思います。
それが本当に良いことなのかと常に自問しながら。

その一方で、僕は自分と関わることになった子どもたちのことは、ヒルネットの子どもたちも、V-net(最近勝手にヨルネットと呼称中)の子どもたちも、ある意味で「100パーセント信頼」しています。
それは上述のスクールの先生と同じです。

どういうことか。
それは「今」「目の前」の行為や判断に疑問を感じてしまうことはあっても、彼・彼女たちの可能性、人間性を「完全に信頼」しているということです

この点について、少し、昔話をさせてください。
しかも、恥ずかしながら、これまた自分の家族のお話です。
30年前の僕が不登校少年だったことは、このブログでも何度も触れてきたことですが、実は不登校だったのは、私の家では僕だけでなく、なんと弟もでした。
いや、ほんとにひどい兄弟ですね。
母の苦労を考えると今でも胸が痛いです、いや、ほんとに。

しかも実は弟の方がこじらせてる期間はけっこう長く、10代後半はほんと実家にはいつも沈鬱な空気が流れてましたよ。
当時の「不登校」の問題は今なんかとはだいぶ環境が違う。
まあ、僕が住んでいたのが関西の田舎の、共同体意識の強い場所だったせいもあるかとは思うんですが、ほんと犯罪者か何かみたいな扱いでしたよね、いや自意識的には。

そんな兄弟をもつ母の心中はいかばかりだったか。
いや、ほんとに胸が苦しくて心臓が止まりそうです。

で、そんな兄弟をもつ母、当然、当時のものながら子育てカウンセリングなんかにも通ってたらしいんですね。
まあ後年聞いた話で、当時の僕たちはよく知らなかったんですが。ほんとタイムマシンに乗って戻って100発殴った上で5時間説教すべきですね。

それで、あるとき、これは僕の記憶では、僕というより弟の案件でカウンセリングの先生に相談したそうなんですよ。
その頃、弟はほんとにかなりやばくて、兄の自分の目から見ても、アレこいつチョットひょっこり死んじゃうんじゃないかな、とかって感じがする時期だったんですね。

カウンセラーと対面した母は、おそらくは涙ながらに、自分の子育てが間違っていたのか、息子に何をどうしてやれば良いのか、と相談したそうです。
そんな母に、当時のカウンセラーの先生はこう言いました。

「お母さん、息子さんを愛していますか?」
「もちろんです」
「彼が小さい頃、たくさんたくさん、彼を愛してあげましたか?」
「そうしてきたつもりです。彼がどう思ってるかは判らないけど……」
「大丈夫です」
その人ははっきり言ったそうです。
お母さん、彼はきっと帰ってきますよ。彼を信じてあげてください。信頼してあげてください。お母さんが彼を愛し信頼する限り、彼はきっと家族のもとに帰ってきます

弟は本当に帰ってきました。
大検を取り大学に進学、京都大学の博士課程まで行きました。
結婚をして息子二人に恵まれ、今ではもう立派なおっさんです。
そして、僕がもっとも信頼する男の一人です。

どうでしょう。
僕が言いたいのはこういうことです。
子どもを「完全に信頼」する、というのは、「今」「目の前」の彼・彼女らの幼いふるまいや判断を、ただ単に受け入れることを意味するのではない。
「今」「目の前」でどんなに馬鹿げた行いをしていたとしても、そんな彼・彼女らが、いつか必ず素晴らしい人間になる、立派にそれぞれの道を歩んでいくようになる、そのことを「信頼」してあげることなのだと。
そして、これはきっと、「不登校」とか「発達障害」とか、それらある種「特別」な話に限ったことではなく、子どもたちと接する大人たち、皆が持っているべき態度なのだと思います。

今日はちょっと途中で話があっちこっちに行っちゃいましたね。
まあ、それも良いでしょう。
それでは、それでは。

 

不登校と「勉強」という「武器」

どうも、どうも。
明けましておめでとうございます、というには少しく遅くなってしまいましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう一度正月気分に戻りたいです。

さてさて、今回の記事は本当は年末にでもアップしようと思っていたんですが、毎年のことながらのこの時期の忙しさ、ついつい怠けて年をまたいでしまったわけです。
で、そのテーマは、ずばりお勉強の意義について。

まあ昔からではあるんですが、とりわけ近年、僕たちの生徒はもうほんとに種々様々な「個性」を発露する生徒ばかりになってきておりまして、集団としてもう単純に「受験勉強」等々を教える「塾」という感じではなくなってきておるわけです。
まあ、そういう意味ではほんとに「教育相談所」という名称が実態に近い。

その「相談」も前回記事にしたような案件から、不登校あるいは「まだら登校」生徒の相談から思春期暴動型ゲーム中毒中学生の相談まで結構、幅広い。
実際、不登校ないし「まだら登校」に関する相談はプライベートでも広がってきておりまして、いっそ午前日中にそういう子どもたちのホームスクーリングを補助する的な教室でも開こうかと考えてしまうほどなんですな。

で、そうい子どもたちの相談を耳にするとき、ちょっとばかり僕が心配に思うのが、本日のお題、お勉強について。
多くのお母さんが、まあ当然かとも思うんですけれども、「子どもが学校に行かない」(あるいは最近は「行かせたくない」)という状況について考え悩んでいる反面、子どもの勉強については、「まあ勉強はとにかくとして」とか「別に勉強はそんなできなくともいいんだけど」的な感じの反応をお見せになる。

いや、実際、その子どもが中学生ぐらいで、完全に学校生活に疲弊しきって半ば鬱的状態に陥っての不登校、って状況だったら、その反応も当然です。
そういう子どもたちは、まずは休ませてあげなくてはならない。
勉強云々については、少し落ち着いてからのことになるでしょう。

でも、その子が小学生ぐらいで、しかも完全に学校その他に疲弊しきる以前の状態であったなら。
それこそ「まだら登校」の状態であったり、あるいは疲弊する前に親御さんが手を打てた状態なら。

その場合は、「勉強」というものについて、しっかり考えておくべきです。

なんとなれば、勉強いや「教養」と言いましょうか、あるいは「知識」というべきでしょうか、ともあれそれら幅広い「知性」というものこそが、まさにそうした子どもたちの人生にとって、もっとも簡単に手に入る「武器」となるからです。

これは何も勉強しておけば最終的に高卒認定を取ったり大学に行けたりするから、という世俗的な問題から言っているわけではありません(もちろん、そういう側面もありますが)。
実際、ここで僕が言っている「勉強」というのは、上で書いたように、どちらかというと幅広い「教養」を意味しています。

それは自身の知的関心にしたがって種々の本を読みこなす読書能力であり、また自身の考えや感性を表現しうる文章記述能力でもあります。
また、これまでの人類の歩んできた歴史から現在社会を読み解く能力であり、また自然的環境を生物的、物理的に読み解こうとする力でもあるでしょう。
はたまた、より広い世界に自分を飛翔せしめんとするための語学的関心かもしれません。
そして何より、これら勉強=教養というものは、その学びが一定のレベルに達すると、その関心・思考が以上のジャンルを横断して連関していることにも気づかせてくれるものです。

とはいえ、例えば小学生の子どもが、一足飛びに上記したような知的関心、知的能力を手に入れることは不可能です。
したがってまずは、満足に読み書き計算ができるようにならねばならないし、歴史や科学の基礎的知見を得ねばならない。英語の基礎的な単語や文法も知っておく必要がある。
その多くは、いわゆる「お勉強」と重なる部分もあるでしょう。
その「お勉強」の内容を、あくまで「教養」「知性」に高める基礎的土台と見て、学ぶ必要があるわけです。

「いやいや、ウチの子、そんなに賢くならんでもええんですわ。そこそこでえーんです。そこそこ平凡に、幸せに生きてくれたらええんです」
そんなふうに思ってはいけません。
いや、実際にはそう願っていたとしても、そんなふうに考えて「勉強」を処理しようとしてはいけません。
そうした態度は必ず子どもにも伝わります。そうすると、途端に「お勉強」はつまらない点取りゲームの一種みたいに思われてしまう。処世術の一種と堕してしまう。
だから、子どもに接する大人こそが、「勉強」を成長の土台として見る考えを持つことが肝要です。

逆にいえば、子どもたちが成長した際、そうした「教養」「知性」を手に入れていれば、自ずから自分の人生の可能性をいくらでもの広げることができます。
大学にいって専門的に学問を学ぶこともできます。起業して自分の可能性を試そうと思うかもしれない。あるいは日本以外の国に出て行って国際的に活動したいと思うこともあるでしょう。

ですが、そうした知的能力を養う過程が、もしなかったとしたら。
彼は、そもそも自分の人生に種々の選択があることにすら気づかないかもしれないのです。
なんとなれば、知的経験の積み重ねこそが、種々の可能性を「想像」する力を養うものだからです。

ちょっとした個人的な体験をここに書いておきましょう。
もう10年近く前になりますが、大学時代からの友人と久しぶりに再会した際のことです。
地方の大学に勤めている彼は、卒業生だといってある女性をその場に呼んでいました。
当時、20代半ばだったその女性は、実は一年前に仕事をやめて実家に引きこもってしまっているというのです。その原因は、前の職場で種々の酷い体験をしたせいでした。

まさしく会社勤めに疲弊しきっている彼女に、僕たちは、まだ若いんだから、大学で学び直すのはどうか、それとも半年か一年くらい海外に旅でもしてきたらどうか等と様々なアドバイスをしました。
しかし、彼女は決してそういう選択をしないのです。
「いえ、私はもう大人ですから、ちゃんと会社に勤めて働かなくてはいけないのです」などと、会社勤めを一度もしたことのないオッサン二人を前にして、頑として譲りません(友人も種々の人生遍歴を経験しているオッサンだったのです)。
そのくせ、彼女は会社の話、仕事の話になると、途端に挙動不審になり、手の震えを自分でも抑えられなくなっているのです。

本当にかわいそうだと思いました。

何がかわいそうだったか? それは彼女が以前の職場で酷い経験をしたからではありません。
そうではなく、彼女が「会社で働くことこそが真っ当な大人」という価値観から決して逃れられないことがわかったからです。

彼女は大学を出ていました。しかし、実は彼女の学歴は、それこそ「処世術」としての勉強により得られたものにすぎませんでした。
話しているうちに気づいたのですが、彼女は驚くほど、この社会に、この世界に対する「教養」が欠如していました。例えば、資本主義という言葉の内容さえ知らなかったのです。
日本が現在、どんな社会なのか。世界は現在、どのように動いているのか。
その中で私たち個人は、どう生きるべきなのか。
彼女は文字通り、何も知らなかったのです。

僕が、「教養」「知性」とは可能性を「想像」する力を養うものだと言うのは、以上のようなエピソードに出くわしたことも関係しています。

既存の価値観を疑わせてくれるもの。
自分自身の人生の価値観を、指針を定めてくれるもの。

これらは何もないところから生まれてくるものではありません。
まさしく、幅広い読書などの知的経験から生まれてくるものなのです。

だから、僕は何度でも繰り返したい。
例えば不登校になったとしても、最終的に「勉強」すること自体は絶対に必要です。
彼、彼女たちが拒否したのは「学校」というシステムであって、決して「勉強」ではない。そこを勘違いしてはいけません。
もちろん繰り返せば、彼、彼女が疲弊しきっているなら、まずは休ませてあげなければならない。しかし、それでもいずれその子どもたちが立ち上がった時、彼らが深い「教養」を得られるよう環境を整えておいてあげたい。

彼らが既存の価値観から脱するためにも、それは絶対に必要です。
既に「学校に行くのが真っ当な子ども」などという既存の価値観を壊して前に進もうとしている子どもたちにこそ、別の価値観を、別の可能性を教え想像させてくれる「知性」が必要なのです。
そして、それはもちろん今はまだ、そういう「真っ当」と思われている子どもたちにも、必要なものです。

さてさて、今日も書きすぎました。
新年のブログにしては随分重いものになってしまいましたね。
次回は何とか軽いものをテーマにしたいと思います。

それでは、それでは。

 

「学校になんか行きなくない!」って子どもが言い出した時

どうもどうも。
10月も半ばになってようやく秋っぽい季節感が感じられるようになってきた今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は珍しく風邪もひかずに頑張っとります。

さて本日は、タイトル通り不登校の問題について。
知っての通り、って知らないかもしれませんが、このブログでは何度かこうしたテーマに触れた記事を書いとります。
というのも、僕自身が大昔も大昔、もうおよそ30年も前に実際、不登校を経験した中学生だったから、というのと同時に、これまた不思議な縁で、今も含めて、数々の不登校生徒を相手にレッスンを行っておるからなわけです。

最近の傾向、というわけではないんですが、少し教室のなかで目立つようになってきたのは、周りがアホでやってられなくなったのか、はたまた不条理な教育システムに無言の抗議を行うためなのか、傍目から見てすんごい成績優秀な学生が、ふいと学校に行かなくなるって案件ですね。
自分の子が優秀だったらそれなりの将来を期待してしまうのが親というもの、それが不意に既存のレールから外れてしまう感じになると、そりゃ親としてはショックですしめっちゃ心配ですよね。

だけど、考えてみれば、不登校になるような子というのは、やはり人一倍感性が豊かであったり頭脳明晰であるような子が多いんだと思いますよ。いや、昔の僕は別にしてもね。
そういう豊かな感性や思考力を持った子が、思春期特有の自意識に苛まれる中で、周囲と安易に同調できなくなっていく。

また、感性の鋭い子であれば、思春期であるか否かにかかわらず、学校特有の「集団行動」ってやつが苦痛でたまらない。
周りで多くの人間がわちゃわちゃやってるのが鬱陶しくて死にそうになる。
そういう場合は、もう小学校の中学年あたりから、ただ学校に存在するだけでストレスになるもんです。
そのストレスが蓄積されて、中学生ぐらいで我慢の限界ってなケースもあるでしょう。

感性豊かであったかどうかはともかく、ちょっと変わった子であったらしい僕の場合は、まさにそれでした。
今もそうですが、みんなと一緒に何かやるってのが、ほんとに嫌なんです。
だから、小学校なんかの班行動とか、ほんとにサイテーの気分でやってましたよ。
学校からの帰宅時は、一刻も早く独りになりたくてダッシュで誰とも喋らず帰ってました。

そうしたストレスが、学校に対してどれほどのトラウマを作るかというと、これはひどいもんです
僕なんか、40代になった今でも、娘の関係で学校に行くと、とてつもなく嫌な気分に襲われます。
あの、何でしょうか、学校特有の匂いみたいなものがあるんですね。
それを感じると、じわーっとネガティヴな気分が心の底から湧いてくるんですよ。
これはもう、意志の力ではどうすることもできないのです。

しかし親となって、あるいは少なからず教育に関わる身となった今は、「そーやんなー学校とかってクソやんなー無理して行かんでええんちゃう?」とかって無責任に言うこともできません。

いや、まず前提として、学校は無理していく必要はないと思います。
「行きたくない!」と毎日のように泣く子を学校に引きづっていく、なんてのは、絶対やってはいけないことです。
現在は、オルタナティヴスクール含め、いくらでも代わりの選択肢があるわけですから、既存の学校にこだわる必要はそれほどありません。

言うまでもありませんが、子どもが「学校に行きたくない」と言い出したら、まずはその気持ちをしっかり受け止め、寄り添ってあげることが大切です。
その「気持ち」は必ずしも言語化できるものではありませんし、本人にもはっきりわかっていないことの方が多い。
ですから、その理由如何にかかわらず、どうしても子が学校に行きたくないと言うのなら、「ズル休み」でも何でもアリだと思って、しばらく状況・様子を見守ることが肝要でしょう。

……というのは、でも、まあキレイ事なんですよね。
もちろん、大切なことではあるんですが。

しかし、「大切なこと」ってのは、何でもそうですが、言うは易し行うは難しなんですよね。
だいたい、これくらいのことはネットで検索すれば、どこにでも出てることなんですから、よっぽど「意識低い」親御さんじゃない限り、悩めば誰でも思いつくことです。
(まあ、世の中にはそう言う「意識低い系」の人も教師含めまだまだいっぱいいますので、そういう「キレイ事」による「啓蒙活動」が必要な局面もあるんでしょうが)

どうして「行うは難し」なのかと言いますと、まあ僕もいろいろなお母さんたちから、それこそプライベート含め、種々の話をうかがいますけれども、例えば、その「行きたくない」の度合いが難しい。

例を挙げるなら、子どもが学校に行きたくないと言い出して、まず最初に、そうは言っても理由を聞きますよね、親は。言語化できないだろうと知っていたとしても。
で、その理由として子どもの口をついて出た言葉が、「プールが嫌だから」とか、「学習発表会が嫌だから」とか、「○○君が嫌だから」とかだったら、どうします?(一部実話を交えて書いております)
ひょっとしたら、「〜が嫌だから」の背後には、言葉にできないいろいろなストレスがあるのかもしれない。
でも、ひょっとしたら、ほんとにプールが嫌なだけかもしれない。
どちらなのかは、言葉はもちろん態度からでも判別できない。
じゃあ、そういうとき、仮にほんとに学習発表会が嫌なだけだった場合、安易に休ませてしまうのはどうなんだろうか?
ズルズルと嫌なことから逃げる子になってしまわないだろうか?
誰だって、こんなふうに悩んでしまうと思います。

いや、あるいは理由はなんだっていい、嫌なもんは無理していく必要ない、と強く思える場合もあるでしょう。
先にも書いたように、無理して既存の学校になんか行かずとも、オルタナティブスクールだってある。
でも、親がそう決め考えても、必ずしも子どももそう考えるとは限らないのが難しいところなのです。
人生経験の少ない彼・彼女らの価値観は、そう簡単には変わりません。
昨日まで当然のこととして学校に行っていたのを、急に行かなくてもいいんだ、というふうには、簡単には割り切れないのです。
学校に行けない俺は「ふつう」ではない、という意識に苛まれます。
そんな「ふつう」は下らないと大人が言ったところで、すぐにはそういう意識を振り払えない。それが「子ども」の子どもたる所以なのです。

あるいは、そんな悩みを持つ前に、学校に行きなくないなら、すぐにオルタナティブスクールへ入れてしまえばいい、という考えもあるでしょう。
ただ、場合によっては、ここでもまた迷いが生じます。
そんなふうに親が子どもの生き方を、先回りして決めてしまっていいもんなんだろうか?
最初から、既存のルートとは違う道だってあるんだよ、と示すことは正しいのか?
「自由」や「選択」ってのは、子ども自身が悩みながら主体的に学んでいくものなんじゃないのか?
やっぱり、いろいろ考えてしまいます。

もっと現実的な悩みもあります。
仮に子どもが不登校になった場合、お母さんが働いているご家庭だったら、どうするのか? もしその子が小学生だった場合、家に独りにしておくのか。
いや、中学生以上だったとしても、今度はゲーム中毒みたいになってしまわないだろうか?
じゃあ、オルタナティブスクールに行かせよう、といったって、東京や大阪ならともかく、地方に行けば、そんなものがないところだってたくさんあります。

……と、こんなふうに、今、少し考えただけでも、現実的には「学校なんか行かなくていいよ!」と」カジュアルには言えない状況が、ご家庭ごとに様々あるわけです。

じゃあ、どうすればいいのか。

はっきり言って、万人に通用する答えなどありません。当たり前ですが。
ご家庭ごと、子どもごとに様々なケースがあり、処方箋は一人ひとり異なるものだと思います。
ただ、僕自身は一つだけ、何とか絶対に守りたい、守っていこうと思うことがあります。

それは、自分の子どもをどこまでも、完全に信頼する、ということです。

これとて、キレイ事、行うは難きことであるのはわかっています。
でも、子どもが一定の年齢になったら、学校に行かなくてもゲームばっかりしていてもソファで一日中寝転んでいても、最終的にはその子のありようを信頼する。
この子は絶対に大丈夫、と信用する。
そりゃ小言は言いますしゲームばっかしてるとアホになるよとも言いますが、心の軸の部分に「不安」を持たない。

やっぱり、この「不安」ってやつが、まずいんですよね。
それがあるから、100パーセント子どもの「気持ち」に寄り添うことができない。
「逃げてるんじゃないか」「将来やばいんじゃないか」「ゲーム中毒になるんじゃないか」
これらは全部、「不安」なわけで、そういう気持ちをなるべく持たないようにする。

何度も言いますが、それって難しいことです。
僕だって、はっきり言って、自分自身にそういう覚悟を持てよ、と言い聞かせながら、今、書いてます。

不安にならない。子どもを信頼する。

でも、やっぱりそうすることが、「学校に行きたくない!」と子どもが言い出した時、最初に僕たちが覚悟することなんじゃないでしょうか。
その覚悟が心の軸にあれば、やがて必ず、それぞれの答えが自ずと見つかっていくのだと思います。

それでは、それでは。

「不登校」の具体的な処方箋② 中学生編

どうもどうも。
早いもので、もう一週間もすると年末ですよ。2017年もほんとに早かった。早すぎた。なんか知らん間に過ぎ去った感じです。

さてさて、そんなこんなで年末ですが、前回のブログの続きが、まだ。
なんとか年末までに続きを書くと宣言していた手前、むちゃくちゃ忙しい最近の日々ですが、なんとか時間を見つけての更新です。でも、ちょっと短め、で。

で、前回書いたのが、小学生の子どもが不登校になった場合の具体的な対応。
ま、とはいえ、やっぱりけっこうハードル高かったかもですね。ホームスクーリングとかは。まあ言いたかったのは、親に(僕自身含め)「覚悟」さえあれば、なんとかなる、ということでした。

そんでもって、今回は中学生。あるいはそれ以上の年齢の子ども。

実は、やっぱり不登校等の状態に陥りやすいのは、この年齢の子どもたちです。
実際、遠い昔銀河の彼方で僕が不登校になったのも、中二の年齢でした。
いや、そもそも不登校に限らず、中学生、って年齢は思春期ど真ん中。大人と子どもの境目。ホルモンバランスもめっちゃ悪い。ってな状態で、子どもたちが何らかの悩みや苦しみを抱えやすい年齢です。むしろ何もないほうがおかしいくらい。

ですので、その年齢での不登校は、やっぱり小学生時代とは違います。
そもそも、親にコントロール不能であることの方が多い。

ですから、この年齢の子どもたちが仮に不登校になった場合は、まず最初に、その「傷」が癒える時間が必要となります。
そもそも自意識の塊みたいな年齢ですから、「自分が不登校になっている」状態自体が、辛い。なんか「ふつう」じゃない感じがする。恥ずかしい。。。
そういうネガティブな方向にどうしても、いきがちです。

ですので、まずはその子どもの状態を、あるがままに受け止めてあげる期間、というのが必要になりますよね。
そんな状態では、もちろん勉強なんかしないでしょうし、再び「社会」に出て行くエネルギーがない状態で、ああしろこうしろと言っても、逆効果になることだってあるでしょう。

ただ、そのまま家に引きこもって外出しない・できなくなるのもまずい。。。
この辺り、ほんとに対応が難しい期間とは思いますが、少なくとも自室で自足できちゃう環境、例えば個人のPCやスマホでバーチャルに「社会」とのつながって「満足」できちゃうような環境は、つくらない方がいいですよね。
家人との積極的なコミュニケーションも絶やさない方がいいでしょう。

ともかくも。
そのもっとも難しい時期をクリアできたなら。つまり、一種の「鬱」状態を脱することができたのなら。
そのあとは、実はいくらでも道があります。

まず、一つは最近、「チャレンジ校」と呼ばれている、元定時制や通信制だった高校の活用です。
ほんとに最近は昔と違って、いろいろなタイプの学校が、私立でも公立でも存在するんですよね。
もしお子さんに、いま一度、学校生活なるものを味わってみたい、そういう形で勉強してみたい、という気持ちが芽生えたようなら、こういう学校に通ってみるのも選択肢の一つです。
僕の生徒では、一人、いわゆる「通信制」の民間の学校に通っている生徒がいます。
「通信制」と言いますが、その学校は、完全通信もありますが、週3回ぐらい実際の校舎に通う、「単位制」のシステムも取り入れているようです。
僕の生徒は、この通学込みの単位制に通っているんですが、なかなか楽しそうですよ。
話を聞いていると、単位制なので大学に近い自由な雰囲気のなかで、興味のある勉強を中心に学べます。しかも高校卒業の資格を自動的に取得できる。
ただ、「勉強」に関するフオローは特にないでしょうから、単位をとるのみでなく、しっかりと学習効果もあげたいようなら、「学校」とは別に学習専門に他機関を併用する必要があるでしょう。まあ、これは「ふつうの学校」に通っていても、同じことですが。

もちろん、こうした「チャレンジ校」ではない、オルタナティブスクールに通うのも、一つのアイデアでしょう。
ただ、こうしたオルタナティブスクールの多くは、文科省認可でなかったりして、高校卒業の資格が取れないことが多い。
その際、必要になるのが、高校卒業程度認定試験に合格することです。

さて、この高卒認定。
この11月の受験した僕の生徒も、見事に全教科合格していました! 素晴らしい!
前々回のブログで、文系教科は大丈夫だろうが理系教科はどうか、などと書いておりましたが、全くの杞憂! 問題なく、全教科バッチリ取れてたみたいです。

ことほどさように、高卒認定試験の合格は、決してすごく難しいものではありません。
一回の試験で全部の単位(計8単位あります)を合格するのは、なかなか大変かもしれませんが(だからこそ、前述の生徒は素晴らしいわけで)、テストは年に2回ありますし、2年がかりくらいの計画を立てて勉強すれば、必ず合格できると言えるでしょう。
「うちの子は二年間、まったく勉強してなかったので英語と数学はさっぱりで……」などと心配する必要はありません。受験する子の多くはそういう状態です。
なかなか独学ではしんどいかもしれませんが、繰り返せば、地道にやれば必ず合格できます。

そして。
いずれの方策をとるにせよ、高校卒業の資格さえ取れれば、努力次第で大学にだって進めますし大学院にも進学できます(これは、いらんか)。
実際、8月に高卒認定をとった生徒は、すでに大学受験目指して勉強を開始しています。

つまるところ、中学での不登校、あるいは一回の「挫折」くらい(ほんとは挫折でもなんでもないし、そういう言葉も使いたくありませんが)、「人生」にとって何もマイナスではありません。
いえ、むしろ「得がたい経験」の一つとすらなりえます。
それは僕自身の、遠い昔の「経験」からも言えることです。

「学校」のような共同体に馴染めなかったことが、いったい何だというのでしょうか。
そんなことよりも、彼・彼女の得がたい「個性」を尊重し充実させてあげることが重要ではないでしょうか。
それは、小学生であれ中学生であれ、同じことでしょう。
「学ぶ」ことの道は、他にいくらでも可能性があるのです。

とまあ、今日はこんな感じで。
それでは、今年も皆さん、こんなつまらんブログを読んでくださって、ありがとうございました。
皆さんにとって来年が、素晴らしい、得がたい一年となりますように。
良いお年をお迎えください。

それでは、それでは。