「発達のでこぼこ」具合と「不登校」と『サーミの血』

どうもどうも。
ついに梅雨が開けたと思ったら昼食に使う長ネギを買いに出かけただけで熱中症になりそうなほどのクソ暑さに見舞われている東京ですけれども皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう何もしたくありません。

さてさて、先日の記事ではちょっと不登校について、改めて色々考えてみたわけですけれども、そもそも日常の学校生活に「疲れる」って言うけれども全然そんなことない、めっさ楽しく学校生活送った記憶しかないわいって方もおられるかと思います。いや、今の小学生、中学生にだって当然います。

例えば、御歳73歳となる我が父もそうでした。今から60数年前(すごいな)の我が父は運動会の徒競走でダントツビリを走りながらも笑顔でゴールインするような超ポジティブ小学生だったそうです(なお、その遺伝子は我が甥子に受け継がれている模様)。
ところが、そんなポジティブ学校生活を送った人の息子が突然、不登校になる。なんか理由もはっきりしない。
はっ?なんでやねんそれ?となるのも当然ですよね。

じゃあ、例えば「登校」を「拒否」しちゃいたくなちゃった子は、そもそもどうして「疲れる」のか?
いや、別に「不登校」にならなくてもいい。
学校生活が「しんどい」と感じるのは何故なのか?

そりゃ、もちろん原因はホントに様々です。
が、前の記事でも少し触れたように、その一つに、いわゆる「発達のでこぼこ」具合ってやつが少からず関係してることもあるでしょう。

と言ったって、僕は最近の、ウィスクの結果がどうだとかグレーゾーンが何だとかADHDがどうこうだとかって言説傾向は、あんまり信用してません。いや、それぞれにフォローが必要だとしても、過剰に深刻な形では捉えません。これは昔の記事にも書きました。

というより、僕が特殊なだけかもしれませんが、僕の実感では、生徒はもちろん、自分の子やその周囲の友だちとか皆んな引っくるめて、少なくとも小中学生の6割くらいの子は、何かしら「発達」が「でこぼこ」してます。
そして生徒に関して言うと、多くの場合、良くも悪くも、高校生くらいになると、なんか「ふつう」になっちゃいます。いや、ほんとに良くも悪くも、ね。

だから、前もって言っておくと、僕はこの「発達なんちゃら」とかって呼ばれるようになった子どもの「でこぼこ」具合は、ある種の「個性」の発露だと考えるようにしています。
そうした「個性」は、短所として目立ってしまうこともあれば、長所として捉えられることもある。
単純作業が嫌いな代わりに好きなことならずっと集中してられる、とかって具合に。

 

ところが。
この「個性」が長所よりも、どうしても短所として目立ってしまう場所がある。
それが「学校」をもその一部とする、「近代の規律・訓練型の社会制度」なんですね。おっと、ちょっと難しい言い方だな。

わかりやすく言えば、「一週ぴったり7日間の1日24時間中、毎朝何時に起きて何時の電車やバスに乗って何時に仕事や学校行って、似たような課題をこなしたら夜もだいたい決まった時間に帰宅して、これを5日間続けて土日はふつう休息日」みたいに、毎日の生活が一定のルールやリズムのもとに規律正しく行われ、しかもそれを自発的に行えちゃう社会のあり方。
これがいわゆる「近代の規律・訓練型の社会」と、政治哲学で言われるものです。

ところが、この近代社会の「一定のルールやリズム」ってやつは、大昔から存在してたわけじゃない。
長い世界史の中で見れば、「つい最近」習慣化されたものにすぎません。
近代の中で徐々に形成され、全面化したのは、世の中の人間の多くが「工場」、そして「会社」で働くようになってからのことなんです。
日本で言えば、大正時代、つまりたったの百年前です。
少なくとも、例えば日本人は、百年前までそんなふうには生きていなかった。

このことに関して、ある映画を紹介したいと思います。
その映画は、『サーミの血』。
2017年公開のスウェーデンを舞台とした映画なんですが、とっても良い映画です。

ネタバレしない程度に簡単にあらすじを書いておくと、北欧でトナカイ狩猟を生業とするサーミ人の少女が、「差別」に抗して、スウェーデンの「街」での自由な生活を求めようとする、ってな感じの話。
で、物語の表面的なテーマは、やはりサーミ人とその「差別」についてなんだと思うんですが、隠れた裏テーマとしては、そうした狩猟民族から見た「近現代社会」の異様さなんじゃないかと僕は思いました。

その点については、象徴的なシーンがあります。
サーミ人の少女が初めて「街」の学校の授業に出ようとするシーンがあるんですが、その授業の内容が体育。
そして、その体育の最初に、生徒全員がメトロノームのリズムに合わせて変てこな体操(準備体操?)をするんです。
で、そんなのやったことない主人公は、当然、周りについていけない。

でも、このシーン、異様に見えるのは、体操についていけない主人公ではなくて、むしろ周囲の「ふつう」の生徒たちなんですね。
カチッカチッというメトロノームの規則的なリズムに合わせて、皆が皆、教師含めて完璧に、一糸乱れず同じ動きをする。
なんとも言えない不気味さを感じさせるシーンです。

この場面には、「毎日同じ時間に起きて同じ電車に乗って同じような仕事をする」近現代社会に対する明確な批判が込められていると思います。
もちろん、他の場面、ストーリーのなかでも「街」の「気持ち悪さ」は強調されます。
それに対して、サーミ人たちが暮らす自然の雄大さの美しいこと。

つまるところ、ある種の「個性」をもつ子どもたちが学校生活に「疲れる」のは、そうした「一定のリズム、ルール」のなかで活動することに対する「しんどさ」があるからではないでしょうか?
「メトロノーム」のリズムに合わせて、他の人と同じ「動き=課題」をするのが「しんどい」のでは。
少なくとも、僕は今でも「しんどい」と感じてしまいます。

おいおいちょっと待て。だけど「学校」というものは、多少の特殊性はあったとしても、まさしくここで述べている「近現代社会」の雛形ではないのか?
多少「しんどく」とも、そこに合わせることが、実際の「社会」で生きていくためには必要では?
そうした疑問もあるかと思います。

おっしゃる通り。「学校」はまさしく、そういう意味ではある種の「社会」の雛形だと思います。
例えば、大きな企業に就職したり、そうでなくとも一定の組織のなかで安定的な職業に就こうと思うなら、「学校」は簡単に「拒否」していいものではないのかもしれない。
実際、上に書いた僕の父親は、いわゆる「大企業」に40数年勤めておりました。
それに対して、息子の僕は、40過ぎても、ゆるゆるフワフワ生きてます。

たけど、当たり前ですが、僕はこんなふうにも思います。

別にゆるフワ生きるのが良いとは全く言わないけれど(いや、ホントに。それはそれでしんどい)、一方で必ずしも「大きな組織」の中で生きるのが絶対に幸せだとも限らない。
「街」で「ふつう」に生きるのが苦手なら、自然のなかでトナカイを追う生活をしたって良いじゃないか。

いえいえ。これはもちろん、価値観の問題です。
その子、その人が、どんな生き方をしたいかの問題です。

ただ、少なくとも僕は、彼や彼女のもつ「個性」を、単に「短所」としては絶対に捉えたくない。
それを「短所」としてしか見られない場所に彼女を置いておきたくない。

計算ドリルをこなすのに2時間かかってしまうけれども、彼女の描く絵はとても美しい。
他人の気持ちを上手く察せないかもかもしれないが、彼の意見はいつだって正直なものだ。
気の向かない作文は全然書けないけれども、電車のことだったら誰よりも詳しく書ける。
反復作業は大嫌いだけど、一つのアイデアに夢中になったらいつまでだって考えられる。

これら子どもたちの「個性」は間違いなく「長所」です。

「大きな街」で「メトロノーム」に合わせて動くのは苦手かもしれない。
だけど、それなら大自然のなかでトナカイを追う暮らしを望んだっていい。少なくとも、僕はそう思います。

そして、その暮らしはきっと、やはり映画のあるシーンで描かれるように、明るく優しい陽光に満ちたものとなるはずです。

それでは、それでは。

 

教科書が読めない子どもたちはやっぱり大問題ですよね。

どうも、どうも。
先日の台風、皆さんは大丈夫だったでしょうか? 我が家では玄関先のオリーブの木が根元から倒れてしまっておりました。台風、舐めてたらマジやばいっすね。

さてさて本日は国語の話。とりわけ、読解力について。
最近、中三受験生を教えていて遅まきながら気づいた問題があったので、これを記事にしようと思うわけなのですが、その問題というのが、以下。

名付けて「けっこう小説とかはたくさん読んでる子どもが論説文になると意外に読めない問題」。

つまり、小学校時代から、エンタメ小説なんかはけっこう読んでて、周囲からもそこそこの読書家だと評価されていたにも関わらず、ちょっと難しい論説文を読ませてみると、これがてんで読めない。そういう感じの中三生が散見されるわけです。

実はこれと類似した問題として、「そこそこ小説が好きな中学受験生女子が説明文を異常に嫌がる問題」というのもあります。
ただ小六ぐらいだと「説明文」の内容も大して難しくないし、「読めない」から嫌がるのか、単に「読みたくない」から嫌なのか、判別が難しいところもあります。
だから、中断受験生と問題が同根であるかは定かでない。

これに対しし、中三受験生の「問題」は、はっきりしてるわけです。
こちらは、本当に「読めない」のです。
難解な文章が。例えば、抽象語がたくさん出てくる「面倒くさげ」な文章が。

ここで面白いのは、必ずしも「問題が解けない」ということとイコールではないことです。
模試の成績も悪くないし、問題自体はスコスコ解く。

でも、問題文を読んでいるときに、ちょっと立ち止まって、その部分が何を言っているのか説明させようとすると、途端に黙り込んでしまう。
よくよく聞いてみると、問題文の5、6割くらいしか理解できていないとわかる。

実のところ、「国語選択肢クイズ」は、問題形式に慣れている子であれば、はっきり言ってテクニックで解けます。
だから、上記のような「読めない」子でも、志望校に入ること自体は問題ないかもしれない。

でも、やっぱり問題なわけです。もちろん。
彼・彼女たちの人生を考えるなら。

「面倒くさげ」な文章につまづくということは、それはつまりマニュアルが読めない、契約書が読めない、企画書が読めない、そして法文書が読めない、ということです。
何らかの資格などを取るなどして自分を成長させようと思い一念発起しても、その勉強に必要な肝心のテキストが読めない。読みこなせない。
これは、かなり困ってしまう事態でしょう。

そこで、ふと思い出したのが、ちょっと前に流行っていた本、というか研究のことです。
例のアレ、「AI vs 教科書が読めない子どもたち」とかって本。

この本あるいは研究、タイトルだけみると、「ああ、いつものように何か不安を煽ってくるタイプの本ね」って感じがするんですけど、別にAIに仕事が取られる云々の話ではなくて、むしろ「小学生に英語とかプログラミング教えてるヒマがあったら、最低限、教科書ぐらい読めるだけの国語力つけたれよ」っという至極まっとうな意見を言っているだけのものなのですね(なお本書全体の評価とは別)。

その研究の中で、リーディングスキルテストというのをやっているんですが、簡単にいうと教科書に載ってるような文章の係り受けなんかを正確に理解できるか、あるいは文章を正確に読んだ上で内容を推量できるか、といったことを確かめるテストなんですね。
興味がある方は、こちらのサイトに研究のレジュメが載っているので参考にしてみてください。

で、多くの中学生がこのテストを間違っちまったというのが、例の「教科書を読めない」云々の言説に繋がっていったというわけです。
僕も一応、問題例だけですが、いくつかのサイトで試してみました。
結果としては、はっきり言って何が難しいのかさっぱりわかりませんでした。チョー簡単です。当たり前ですが。

でも、僕がチョー簡単だやったーなどと言っていてもしゃーないわけです。
現実に、これらの問題を間違える子どもたちがいる。

で、何人かの生徒にも同じように問題例をやってみてもらいました。
結果は幸いなことに、みんな間違えるようなことは、ほぼありませんでしたよ。ほぼ、ですが。
ただ、これらの問題例は、教科書的な文章の短文を抜き取ってを集めたものになっています。
じゃあ、こうした文章が、多量に続いていく、実際の教科書や、それに類する文章だったらどうか?
やっぱり「面倒くさげ」な文章として、何となく読んでしまい、結果、5、6割しか理解できていない、なんてことにならないだろうか?

繰り返すなら、それはやっぱり問題です。大問題です。

じゃあ、どうすれば良いのでしょう?
その一つの解決策が、「精読」だと思います。

この記事の最初に、「たくさん本を読んでいるのに論説文が読めない」という形で、問題を描出しました。

そう、「問題」は、「たくさん本を読んでいる」読書家であるにもかかわらず、「読めない」ことなのです。
なぜ、彼らは本をたくさん読んでいるのに、「面倒くさげ」な文になると詰まってしまうんでしょう?

それはおそらく彼・彼女らに、読書に際し一つ一つの文章や段落に立ち止まって、そこに書かれている内容を吟味したり、自己の読解の正確性を確認したりといったことをしながら、じっくり本を読み進めた経験が少ないからです。

いや、彼らの読む本の多くは、趣味で読む娯楽の本なのだから、それは当然だと思います。
しかも、それは読解力の基礎を養う経験ではありますし、文章リズムの体得という意味では記述力の土台をも養います。
いつも僕自身言っているように、少なくとも小学生までは、特に日常においてはそうした経験により国語力を養うことが大切でしょう。

ですが、もう一段、上の読解力を身につけるためには、それだけでは足らない。
上に書いたような、一個の文章をしっかり吟味し正確に理解していくような「精読」が必要なのです。

では、どうすれば、そうした「精読」の経験を養えるか?
正直言って、これはなかなか子どもたちが日常の中で養うのは難しいかもしれません。
というのも、精読というのは、リーダブルな読書体験の中では養うことのできないものだからです。
その子どもの年齢に応じた、しかしながら読み進めるのには相応の苦労が伴うような読み物でなければいけない。
そういう文章でなければ、わざわざ一つ一つの文章の正確な読解にこだわるはずがないからです。

しかし、すぐにわかるように、そういう「面倒くさげ」な文章を、子どもが自分から読みたいと思うことはマレですよね。
もちろん、なかにはオタク的に、あるジャンルについてはどんな本でも読みたい、という子どもだっているでしょう。
そういう子には、どうどん、その関心のあるジャンルの本を、大人向けのやつであれなんであれ、その子にとって背伸びが必要な文書を与えていくべきでしょう。

ですが、やっぱりそんなケースはめったにない。
じゃあ、どうすれば良いかと言えば、やはりそういう教育機会を日常以外の場で与えていってあげるしかないのかな、と今のところは思います。
僕自身も、そうした精読を一つの目的とした集団のレッスンなんかもできないかなと思案中です。

もちろん、以上は「解決策」のうちの一つでしかありません。
今後、試行錯誤するなかで、もっと取り組みやすい方法を思いつくかもしれない。
あるいは、すでにそういう方法が他にあるのかもしれない。

ともあれ、実際、英語やプログラミングも重要でしょうが、日本語の読解力がなければ、その他のスキルも無用の長物になりまっせと、上記研究と同じく月並みな感想を抱く今日この頃です。

それでは、それでは。

再開! 読書のワークショップ

どうもどうも。
昨日の台風、皆さんは大丈夫だったでしょうか? 大したことないと思われていた東京でも凄まじい風の強さ、我が家の近くの公園の木々もなぎ倒されんばかりの勢いでした。もちろん西日本はそれどころではなかったようで、関西出身の僕としても非常に心配しましたよ。

と、そんな中、いよいよ夏も終わり、いや少なくとも夏休みは完全に終わり、教室に通う子どもたちもブーブー言いつつ普段の学校生活へと戻っていってる今日この頃。
僕が行う読書のWSも、先月はお盆休みのため上級コース、初級コースともに月一回づつし開講しませんでしたが、今月からはまたいつも通り、それぞれ月二回づつ隔週で行う予定です。
で、先週の土曜日はその第一回、上級コースのレッスンを行いました。

上級コースについては、ほぼ一ヶ月ぶり。
久しぶりということで、そんなに難しくなく、気軽に楽しめる小説をテキストとして選ぶこととしました。
で、選んだのがG・H・ウェルズの「奇跡をおこす男」(講談社青い鳥文庫版)。

詳しいネタバレはしませんが、簡単にいうと、今風に言う超能力みたいな感じの「奇跡」をおこす力を身につけた男が、その力を使ってるうちにとんでもないことが……といった感じのお話です。
ウェルズ特有の文明批判っぽいニュアンスも読み取れますが、基本的には肩のこらない、おもろいお話です。物語のオチも秀逸。

なので、当然、子どもたちにも上々の評価だろうとタカをくくっておりました。
ところが。。。

「どや、今日の話。おもろかったやろ」
「せやな。ま、おもろかった。いや、確かにおもろかった。ただ、おもろいにはおもろかったんやけど……」
「お、なんや、その奥歯にものの挟まったような言いよう」
「なんやろな。なんか、薄っぺらいな」
「へ」
「いや、だから、なんかこう、深みっちゅうんかな。読んで得した感っちゅうんかな。いまいちコクが足らんというか……」
「なにぬかしとんねん」
「せやかて、そない思たもんはしゃーないやん。なんや、ハリウッドの映画見てるみたいなもんで……」
「文学性が足らん、と」
「そう! それ文学性! なんや読んだあと、余韻みたいなもんが残らんのよねえ」

などとクソ生意気なことをおっしゃるではありませんか!(失礼)
「文学性」ときたもんだ。
いや実際、女の子で一人参加したNHちゃんにいたっては、はっきり「嫌い」と申しておりました。

いやー面白いですね。
こちらとしては、ちょっとばかり彼ら少年少女に「媚びた」つもりで選んだ物語だったのですが、見事に返り討ち。
いや、もちろん、全体としては楽しんでくれたようでしたし、なかには「面白かったし好きだった」と言ってくれた子もいたんですがね。

その後に書いてもらった作文もなかなか良かった。
自分が奇跡を起こせたら小学生メジャーリーガーになりたいと書いた子から、その奇跡でおばあちゃんとお母さんを仲直りさせるとちょっと泣かせることを書いた子まで。学校の宿題を無くして学校を週三回一日三時間にする、と書いた子も。

なかでも、「僕は奇跡を起こしたくはない。なぜなら何でも奇跡で解決してたら、喜びや悲しみ、怒りや悔しさといった感情が無くなってしまいそうだからだ」と書いていたのにはびっくりしました。
いや、お見それしました。
ほんとに鋭い感想です。
こうした子どもたちの作文は、そのうち「国語ラボ」のHP上にまたまとめてアップしようと思います。

と、こんなふうに表面上、取り上げた小説が好評であれ不評であれ、子どもたちが様々な「鋭い」反応を見せてくれるので、このレッスンは教えている僕が、ほんとに楽しく、そして嬉しくなってしまうレッスンです。
そこいらの大人と読書会を開くより、子どもたちは遠慮がない分、よっぽど面白いかもしれません。

さて、今週の土曜は初級コース。
こちらはトミー・ウンゲラーの『あたらしい ともだち』という絵本を読むつもり。これもなかなか考えさせられる絵本です。

さらに次回15日の上級コースは絵本作家で有名なシルヴァスタインの『人間になりかけたライオン』という本を取り上げます。
こちらは子どもから大人まで楽しめる、そして深く考えさせられる「寓話」です。上級コースとしてはちょっと異色のテキストとなりますが、子どもたちのみならず是非、保護者の皆さんにも読んでもらいたいと思うほど、素晴らしい物語です。

こんなふうに今後も様々な本、小説を取り上げて、彼・彼女たいと大いに話し、盛り上がりたいと思います!

それでは、それでは。

 

理想の国語授業について

どうも、どうも。
一昨日ぐらいからめっちゃ暑くなって急に真夏日とか言われて熱風のなか息も絶え絶えで何もやる気が起きないって感じですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう外に出たくありません。

さてさて、先日、かつて作文道場(現モノ書きくらす)において華麗なる作品を発表し続けた御大、笑うバカ太郎先生(現在、高3)と個人レッスンを行っておったところ、ふとしたきっかけで国語の理想的な授業について話すこととなりました。

きっかけというは、あれです。学期末テストです。
ちょうど今、中学生高校生諸君は、学期末テストの真っ最中なんですな。

そこで僕だったかバカ太郎先生だったか、どちらともなく話題にしたのが、優れた文学作品をしょうもないテストの題材に使ってくれるなということでした。
いや、もちろん、文学作品をテストの題材にするなということではないですよ。あくまで「しょうもないテスト」の、です。

だって、おかしいでしょう。「夢十夜」とか、テストにしたら。
「夢十夜」の登場人物の「気持ち」とか聞いてくるんですぜ? アホかと。
しかも、その答えは学校が用意した、教師が授業中に解説した、そういう答えと決まっている。
国語の学期テストというのは、ふつう、本当の国語力を聞いているというより、授業をきちんと復習したか否かを問うている感じになってしまっているので、自由な解答なんか書けるわけないんですな。

そういう種類のテストなのに、「メロスが激怒した理由は何か?」なんてアホみたいな問題をふつうに出してくる。
そんなもんに答えるための試験勉強なんかしてたら、多くの子どもが文学作品を嫌いになっちゃったって、仕方がないと思うわけです。

「せやから、オレ、もう国語の教科書にオレの好きな文学作品とか、載せてほしくないとすら思うんよな」
「せやけど、ほな載せるもんないやんけ」
「いや、評論でええやん評論で」
「それかて、あんた、オレの好きな丸山眞男を汚すなとか何とか、言いそうやで」
「……」
「だいたい、中学生がそんな評論ばっかりやったらしんどいやろ」
「……だったら、あれや! 試験廃止したらええねん!」
「まあ、それはええとして、学校の教科書には古今の文学作品を中高生に紹介するっちゅう意味合いもあるんやで。ワシ、夢十夜とかそれで知ったもん」
「せやから、しょうもなテストを廃止や! 全部、レポートとかで評価したらええんや!」
「……せやけど、あんた、予備校時代、40人くらいの小論文の添削、毎日やんのに気い狂いそうやったとかなんとか言っとらんかった?」
「……」

まあ、でもホントに、現代文の試験というのは、学期テストに限らす、レポートや論文で評価するのが筋だとは思ってるんですよね。
小学生なら作文。読解力も確認したいなら、物語の続きを想像させる作文なんかを書かせたり、物語の核をなすテーマについて書かせたりすればいい。
まあ、結局それは上にも書いた通り、今のところ採点に時間と労働力がかかりすぎるという理由でなかなか採用されないんでしょうけれども。

そして何より、国語の授業は、現在のように物語や作品の「解釈」を「教える」形のものではないほうが望ましい。
もちろん今も、教科書の内容をめぐって種々の解釈を参照したり生徒同士で話し合わせたりといったこともしてるんでしょうけれども、外から見ていると、何となく言い訳程度にちらっとやってる感じで、結局は一義的な解釈を生徒たちに「与える」形になってしまっている。
これは教師の問題だけではなくて、生徒の側も、僕がよく言っている「学校特有の文化」「空気」みたいなもののせいなのか、どうも受け身になっているように見える。

で、これはバカ太郎先生にも言ってたんですけど、僕の持論としては、国語の授業ってのは、ほんとはただ「読書」をするだけの時間であってもいい。
毎回のレッスンの最初に、ちょっとした共有すべきテーマを話しておいて、その後は、各自で読書。
全員で同じ本を読んでもいいし、別々の本を何人かのグループに分かれて読んでもいい。
そして読了後に作文やレポートを書いたり、ディスカッションをすればいい。

これだけで、本当はいいんじゃないだろうか?

もちろん、作文やレポートを書く力をつけるためのライティングの授業は別に用意する必要があります。
ともあれ、とりあえず子どもたちの読解力と文章力を鍛えることこそが国語の授業に求められているものなのだとすれば、こうした二つの授業スタイルが柱になるべきではないのかな、と思います。
後はプレゼン力とかかな?

実際、都内の某有名進学校の国語の授業では、こういう方式をとっているところもあります。
いわゆるリーディング・ワークショップ、ライティング・ワークショップという方式ですな。

いや、それは進学校だからできるわけで、種々の学生が集う公立中高ではなかなか難しいっすよ、という意見もわかります。
まして、小学生なら、そんな簡単に行くかよ、とも思いますよね。

でも、それならせめて、同じ本や小説を、教師の語り聞かせに合わせて、みんなで共有して読むって形にすればいいんじゃないでしょうか。
「夢十夜」や「羅生門」なんかを、ただ読んで、それをネタに話をする。それだけ。

いや、別に建設的な「話し合い」をする必要なんて、ないと思います。
例えば、映画を一緒に観たりして、その感想なんかを話すときに、いつもいつも「建設的な話し合い」なんかしませんよね?
馬鹿話の中に、たまに面白い意見が出たりする。そんなもんでしょう?
そして、そんな会話だからこそ、僕たちは同じ映画を観た相手と感想を述べ合ったりするのが楽しんじゃないでしょうか。

読書だって同じこと。
それを国語の授業として成立させてくれさえすれば、子どもたちに自然な形で読書への興味を持たせることができるでしょう。
そううまくいかなくても、少なくとも授業の中で色々な文章にふれ、読解力は身について行く。少なくとも、同じ小説の解釈を何日にもわたって解説されるような(しかも大した解釈ではない)つまらない授業よりはマシだと思います。

さて、ここまでお読みになった皆さんは、お、こいつ、微妙に自分の授業を宣伝しとるな、とお気づきでしょう。
そうです。
つまり、僕が今年度から始めた「読書のW・S」も、普通の、「国語の文章を読んで解答を考える」=「文章の一義的な解釈を求める」方式の国語授業以外の形で、子どもたちの国語力をアップさせたい、という気持ちから生まれてきたものなんですな。

実際、まだまだ試行錯誤ではありますが、それでも毎回、小説を読んだ子どもたちの中からは、いろいろな意見が出ていきます。
もちろん、7割くらいは「おバカ」な会話なんですが、それでいい、いや、それがいいんだと思います。
なぜなら、まさにそんなリラックスした雰囲気だからこそ、突然、こちらは本当にびっくりするような鋭い意見も飛び出してくるからです。

今後は徐々に、回を跨いで、中編の小説を読んだり、自宅である程度、読んできてもらう、という形に広げていく予定もあります。
ま、その辺は子どもたちの反応を見ながら、ですけどね。
とりあえず、7月は旧約聖書の子ども版みたいなやつを、高学年コースで回を跨いで読むつもりです。

ともあれ。
学校の国語授業が、僕の子どもの時と同じスタイルっちゅうのは、これだけ社会が変わっていることを思うと、さすがにひどいと思います。
今後は徐々にでも、変わっていって欲しいですし、また変わって行かざるを得ないでしょうな。
それでは、それでは。

新HPのお披露目と、音読の重要性について

どうもどうも。
ついに梅雨到来ということで毎日うっとうしい天気が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は気圧に応じて気分が沈みがちです。

さて、そんななか、ついに!
ついにこの数ヶ月の無駄な労力が報われ、国語グループレッスンのサイトが完成しました!
以下、URL。
https://www.kokugolab.com/

まあ、まだグーグルで検索かけてもヒットしません。これには、また1〜3ヶ月くらいかかるみたいっすね。よう知らんけど。

ともかくも。
今後は音読サイコロ道場や読書のWSなど、グループレッスンの予定なんかはこっちで確認してみてください。
もちろん、新規の参加も募集しております。

さて。
その、音読サイコロ道場。
現在、午前9時からのクラスと午後3時半からのクラスを土曜に二度開講しておるわけなんですが、実はこの春先から、生徒の皆さんには、なるべく午前のクラスにきてもらうようにお願いしております。午後は原則、定員制にしたりして。
どうしてこんなふうにしたかというと、やっぱり午後、たくさんの子どもたちが一斉に音読を始めちゃったりしますと、場は一瞬にして爆音と興奮の坩堝、他のレッスンが全くできない、という状況が生じるようになっちゃったからなんですね。

なんやかんやで、もうこの音読サイコロ道場も、10年近くやっております。
昔はそうはいっても人数も少なく、子どもたちの音読の声も、教室が活気付いてちょうどいいってな感じだったわけなんですが、最近はおかげさまで生徒も増え、教室を完全に爆音ハイジャックしちゃう状態になっておったわけです。
で、窮余の策として、上記のようなお願いをすることになった、と。

しかし、そうするとやっぱり皆さん、毎週通うのが難しいみたいなんですよね。。。
特にこの5月6月は運動会があったり学校公開が続いたりと、なかなか午前のみだと参加が大変だったみたい。

しかし、これまた難しいところなんですが、特に小さい、小学校低学年くらいのお子さんの場合、時間があんまり空きすぎちゃうと、なかなか一つひとつの文の音読を習熟させることが厳しい。
この辺、ピアノなんかの習い事に似ているかもしれません。
しっかり練習している場合はそうでもないんですが、そこは子どもちゃんのやること。
そうそう真面目に家で練習しませんわな。それを責められるものでもありませんし、そういう「うるさい」場所にもしたくない。

これが個人指導のレッスンですと、一人を綿密に見れますし、また時間もゆっくり取れますから、多少時間が空いても特に問題ではありません。
しかし、やはりグループレッスンの場合は、そうはいかない。
なるべくフォローはしているんですが、時間が空くと、やっぱり「忘れて」しまうんですよね。前にやってて出来てたことを。

でも、ね。
やっぱり大切なんですよね、古典音読。
これはもう、10年教えてきた、僕自身が実感します。

自分で言うのもなんですが、僕はもともと文章は十分書ける人間でした。
と言うより、小説書いたり研究やったりしてる人間で書けないとかありえないわけなんですが、それでも小説家はともかく研究者は必ずしも文章がうまいわけではない。
でも、その点でも、僕はそれなりに文章を書く訓練を受けてきたタイプの人間だったわけです。ま、だから国語教えとるんでっけど。

しかし、そんな僕でさえ、この10年でさらにワンランク文章力が上がったな、と実感できるんですよ。
それはつまり、文のリズムがよくなった。
つまり、上代中古から中世にかけての古文日本語のリズムが入っているおかげで、自然とリズムのよい文章が書けるようになったんですね。
これはもう、10年、音読を教えてきた効用にほかならないわけですよ。

子どもたちを見ていたって、そうです。
やっぱり、ちゃんと音読を踏まえて、作文のレッスンを受け、高学年になっている子の国語力は間違いなく高い。
あまり本を読んでいない子どもでも、そうなんです。

どういうふうに違うかというと、たとえば日本語の助詞。
助詞の用法というのは、たぶんに感覚的なところがあって、たとえば、
「その手紙を読んだら、私は眼から涙のこぼれたのを感じた」
という文と、
「その手紙を読んだ私は、自分の眼から涙がこぼれ落ちるのを感じた」
という文だったら、後の文の方が、まあキレイな文なわけですが、じゃあ前者がどうしておかしいのか、というのを、日本語のリズムの入っていない子どもに感覚的に教えるのは、けっこう難しい。
いや、もちろん「この部分で『〜だら』って使うのは変だよ」とか細かいところを指摘することはできます。
でも、「え、なんで?」と素朴に聞き返された場合、それを仮に論理的に「『〜だら』というのは仮定条件的な用法だが、この場合は事実を述べているのであって仮定しているのではないから」などと説明しても、子どもはますます「???」となるだけなのであります。

だから、まず日本語のリズムを一定程度、体得していることが、文章力を上達させる上での前提になるのですね。
もちろん、これは読書によって自然と養うことができるものでもあります。
ですが、本をあまり読まないお子さんであれば、これはもう絶対にやった方がいい。
さらには読書家であっても、それを意識的に向上させることには大きな意味があると思います。

しかも、本当は、1年、2年、子どものときにやるだけでなく、できれば気に入ったフレーズだけでも良いので、大人になるまでずっと、続けて欲しいと思っています。
繰り返せば、それが文章を実際に、いろいろ書いてる僕の実感です。
何より、高校生くらいになったときに、自分が昔読んだ古文の文章を忘れてるとか、もったいなさすぎます。

というわけで、音読サイコロ道場。
これ、なるべく間を空けずに通ってほしいのですが。。。。
それぞれスケジュールの問題もあるので難しいか。。。
やはり午後のクラスにある程度、振替られるようにした方がいいのか。。

悩みの尽きない、今日この頃です。
それでは、それでは。

 

ブラッドベリ「青い壜」:読書のW・S

どうもどうも。
相変わらず夏みたいに暑い日が続いたかと思うと急に涼しくというか肌寒くなったりして、何とも自律神経の追いつかない日々が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕のところは家族が風邪です。

さてさて、先日の読書のW・Sでは、ブラッドベリの「青い壜」という短編を取り上げました。
ブラッドベリは50年代〜60年代に活躍したSF作家ですが、その高い叙情性、主題の深さなどから文学的な評価も高い作家です。
『華氏451』や『火星年代記』といった小説が代表作と言えるでしょう。未読の方も、タイトルぐらいはどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。
今回、取り上げた「青い壜」という作品も、文庫本で20頁くらいの短編なのですが、非常に叙情的で、大人が読んでも十分に面白い小説だと思います。

舞台は文明が崩壊した火星。
その荒廃した大地を主人公の二人が、望みを何でも叶えると言われる伝説の青い壜を探して旅をする、というお話です。
ネタバレになってはいけないので、詳しい説明は避けますが、大人が読めば、色々と自分の人生含め、人間にとって生きるとはどういうことか幸福とは何なのか、といったことを考えずにはいられないだろうと思います。そういう深い小説なんですね。

ですが、そういう深いテーマをもつがゆえに、果たして子どもたちは理解してくれるだろうか?という心配もありました。
が、結果的には杞憂でしたね。

もちろん大人が理解するように理解しているわけではないんでしょうが、おぼろげながらも小説が伝えようとしていることを、イメージしてくれていたようです。
ある程度、小説を読み進める中で、私が「ガイド読み」をしていたこともあるでしょうが、どうして主人公たちが青い壜を求めざるをえないのか、そうした男たちの人生は幸福なのか否か、といった内容について考えてくれていたように思います。

読了後の議論では、こんな会話が飛び交っておりました(ここから、ちょっとだけネタバレがあります)。

「このベックってやつ、アホちゃう? 何で意味なく壜探し回っとんねん?」
「え、せやけど、クレイグの方がどうなん? こいつ、なんにも人生に目的ないねんで」
「でも人生そんなもんちゃいまっか?」
「いやいや。そんなん主体性なさすぎやろ。このクレイグとか、自分の意思ないやん? ただただ食っちゃ寝の生活しとるだけやで」
「でも、ベックの人生も虚しいもんやで。こいつかて自分のほんまの願いとかわかっとらんやん。ただ意味なく生きがいが欲しいだけやで」
「まあ人生そんなもんちゃいまっか?」
「先生、どない思わはるん?」
僕「わし? わしはどっちも嫌やけど、強いていうならベックみたいな方がええかなあ。意味なくても生きがいあった方がええやん? ねえK先生(学生の女性の先生)?」
K先生「私は人生に安楽だけが欲しいです」
僕「……」

もちろん、これはデフォルメしてる上、実際はもっと話は脱線してますが、まあ、だいたいこんな感じの議論がなされたわけです。
で、レッスンではこの後、こうした話し合いもをとに各自作文を書いていったわけですが、こういう議論をすること、話が「愉快」な方に脱線しようと何をしようと、色々とそれぞれがくだらないこと含めて、「意見」を言えるって、僕はほんとに大事だと思ってるんですよね。
作文にして自分の意見を文章化することも大事なんですが、同時にアドリブ的に自由に意見が言えないとダメ。

っというのも、皆さんよくご存知の通り、日本人はほんとに意見が言えない。
質問ができない。
これは昔、大学などで非常勤講師をしていた経験からも、はっきり言えることです。
授業の終了後に質問を受け付けても、誰も手をあげない。
これは実は大人でもそうで、昔、放送大学というところで非常勤講師をしていたことがあるんですが(放送大学の学生は単位の認定上、一定の頻度で「リアル」の授業も受けないといけないんですね)、やはり折々の機会に発言を求めてもほとんど手が上がることがない。あるいは発言する人は決まった「常連」の人になってしまう。

まあ、こういう傾向は日本人の国民性というか、出る杭は打たれる社会のせいというか、「恥」の文化が染み付いているせいでもあるのでしょうが、特に子どもや学生に関していうと、やはり学校文化が大きいように思います。

学校で何か目立った行動をする。
目立った発言をする。
すると、すぐ悪目立ちしてしまう。あるいは周りからつまらんチャチャを入れられる。
こういう経験が繰り返されるなかで、
「知らないことをみんなの前で質問するのは恥ずかしい」
「変な意見を言って、変な奴だと思われたくない」
こういう心理的傾向が、意識的・無意識的に醸成されていってしまうんでしょうね。
これは先生のせいとかではありません。
ある種の、「日本の学校文化」のように思います。
だからこそ、変えるのが個人の努力では難しい。

まあ、しかし、その原因が何であれ、読書のW・Sに限らず、僕のレッスンでは今後も、どんなことでも自由に発言できる「場」を作っていきたいと思いますね。
どんなにつまらん質問でも、変てこな発言でも、しっかり汲み取ってあげられる空間を目指したいと思います。
そうすることが、将来、子どもたちを、周りの意見に何となく合わせるのではなく、主体的に自分で考え、自分の「言葉」を持てる人間へと成長させるものと信じています。

では、今日はここらへんで。
それでは、それでは。

「読書のワークショップ」開始!

どうもどうも。新学期も始まりまして皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は暇があんまりありません。

前回ブログから何と、1ヶ月も時間が空いてしまいました。
そう、ほんとに時間がないんですよね(いや、ありがいことなんですけどね)。
休みの日も、新たに準備しているグループレッスンのためのHPの作成なんかで、妙に時間を取られてしまう(こちらのHPも出来上がったら「宣伝」する予定。カメのあゆみのごとく遅々として作業は進みませんが。。。)
おかげで、こないだ買った哲学書もなかなか読み終わらず。昨日、やっと読了ですよ(最近、話題になっていた『世界はなぜ存在しないのか』という本なんですが、非常に読みやすい本ではあるので興味のある方は是非)。

どうして、こんなに時間がないのか。それは一つは上に書いたHP作成作業。
でも、たぶんそれ以上に、この4月から、いろいろと新たな企画を始めてしまっているからなんですよね。

その一つが、「読書のワークショップ」。

先々週、土曜日からついに始まりました!
第1週に高学年コースをやり、先日14日に低学年コースも始まりました。
いや、なかなか面白いですね。
子供たちが、こちらの思っても見なかったような発言をするので、僕としても興味深いグループレッスンになっております。

高学年コースは10人。
低学年コースは3人。
低学年コースはもう少し人がいた方はいいような気がするものの、正直、レッスンとしては、これぐらいの方がやりやすい。ちゃんと全員の発言も拾えますしね。
逆に高学年コースは思った以上の大人数。
教室いっぱいを使う羽目になっちゃった上、前回はレイ先生にも手伝ってもらうことに。
次回はさらに、別に岸先生という女性の先生にも手伝ってもらいます。

高学年と読んだのは、「赤いろうそくと人魚」という古典的な名作童話。小川未明作です。
意外な、しかし残酷な結末な絵本なのですが、その残酷な部分が子どもにはえらい悪評。。。
多くの子どもが、途中で「金」に目がくらみ「ダークサイド」に落ちてしまう登場人物を痛烈に罵る罵る。最後に書く作文でも、自分だったら、その登場人物たちをどんな目に合わせてやるかって話で盛り上がってました。
そんな中、一人、この物語が「好き」と書いたGくん。
普段から作文を習いにきている彼は、流麗な文章でもって、「ダークサイド」に落ちた人間は皆キレイに復讐されてるんだから、むしろ痛快な物語じゃないかと反論しておりました。僕もどちらかというと、そう思ったんですけどね。。。

一方、低学年は『おばけリンゴ』という絵本を読みました。
これは貧乏ぐらしを強いられていたワルターという男のリンゴの木に、異様に大きなリンゴがなって。。。。という話なんですが、子どもたちの反応が面白かった。
これは、大人が読むとおそらく、巨大化していくリンゴが、主人公の欲望とかを表してるんだろうなあ、といった感想を持つと思うんです。
ところが、

「こんなでっかくなったんやったら、最初からカットして市場にもっていって売ればいええやん? こいつアホなん?」
「そもそもこいつ、働く気ないやん、だから貧乏なんやん」
「あ、竜でてきた! 俺、竜大好きなんよなあ。背中乗りたい。。。あ! 退治されてもうたやん! 俺、背中乗りたいのに!」
「なんかめっちゃ顔色の悪い王様でてきた!  俺、こいつ好きやわーおもろい顔したはるわー好きー」

等々。。。なぜか、めっちゃ物語の細部に反応しておりました。。。さすがは我が生徒たちです。

でも、ね。
これでいいいと僕は思うんですよね。
小説や物語の楽しみ方は人それぞれ。
決まりきった解釈をしたり、メッセージを読み取る必要はありません。いや、むしろそんなことを強要するや否や、読書は「学校国語の授業」のような「お勉強」に堕してしまうものなんです。

小説は、その作者すら、実は特定の意味やメッセージを込めて書いているものではありません。
そりゃ、ある程度のテーマはもって書き出すでしょうが、それこそ物語の細部に、思わぬ「意味」が宿ってしまうものなんです。
その、どの部分に反応するかは読者自身。
だからこそ、年を経て再読した小説に、思わぬ発見があったりするものなんですよね。

この「読書のワークショップ」。
人数が減ろうが増えようが、今後も長く続けていく予定でいます。
そのうち、冒頭に面白い長編小説を紹介したり、あるいは逆に生徒に紹介してもらったり、ということもレッスンの中に取り入れていく予定です。
それ以外にも、こういうこともしたい、ああいうこともしたい、といろいろ企画はあるのですが。
まあ、そうしたことは多少慣れて、レッスンのペースがつかめてからですかね(なんといっても、今のところ大幅な時間延長にならないようにするだけでも大変な感じ)。

ともあれ、しばらくは僕自身もレッスンを楽しみたいと思います。
それでは、それでは。