「体験」が「学び」の種を作るということ

どうもどうも。
いよいよ夏休みが終わりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

前回のブログでも書きましたが、新学期の始まりというのは、どんな子どもにとっても憂鬱なものです。
子どもから何らかの「サイン」があったならば、「傷が浅い」うちにそれを受け止めてあげられると良いですね。まあ、なかなか難しいのですが。

さて、僕の活動としても、明日からヒルネットの活動再開です。
ところで、このヒルネットですが、そもそもこの活動を行おうと思ったきっかけは、実は「不登校」の問題だけではなかったんですよね。

いや、もちろん、数年前からそういう相談が増え、またプライベートでも何件か「不登校」「まだら登校」の悩みについて聞かされるようになっていたのは事実です。
だから、直接の動機がそこにあったのは間違いないんですが、ただそれだけでもない。

実は、ある意味でもっと別の問題として、ここ数年、ある疑問がずっと頭の中にあったわけなんですな。
それは、「どうして、子どもは学校に通いだすと、こんなに〈勉強〉を嫌いだすのだろう?」という疑問でした。

まあ正確にいうと、「学校に通いだすと〜」なのかどうかは判らないんですが。
しかし、とにかく自分の子ども含め、幼稚園や小学校1年生くらいの子どもは、むしろ〈勉強〉が好きとさえ見えるくらいなのに、中高学年くらいになると、ほぼ完全に「面倒なもの」になっている。

「3足す4はね、7なんだよすごいでしょ!」「僕ね、自分の名前漢字で書けるんだよ!」「夏休み旅行したこと作文に書いたんだよ読んでみて!」
まだ小さい子どもたちが、こんなことを先生に、あるいは両親その他の大人たちに告げている図を誰だってみたことがあるはずです。

実際、子どもというのは、本当は学ぶことが好きです。
特に自分が興味を持ったことを学ぶことは大好きです。しかも大人では太刀打ちできないくらい、吸収も早い。
そして、この点については年齢が上がっても同じかもしれません。自分が好きで、関心を持てたことについては、彼らは自分でそれを調べ、自分でそれを学びます。
それは、人によっては「恐竜」のことかもしれないし、人によっては「鉱石」についてかもしれない。あるいは「電車」のことかもしれません。

ところが。
これが学校の〈勉強〉となると、途端に「重荷」以外の何ものでもないみたいになってしまう。

これは一体何でなのか?

「強制」の有無、ということが一つの原因であることは間違いないでしょう。
毎日の「宿題」、「受け身」の授業、気分が乗らないときでも机に座り続け目の前の計算ドリルはこなさなきゃならない。そういう「作業」をこなす毎日。
こういう強制された「作業」を面倒に感じるのは、大人だって同じでしょう。

では、一切の強制がなければ、いいのか?
何も強制されぬまま育てられた子どもは、幼少期の、ある種無邪気な知的好奇心を保持し続けられるのでしょうか?

これはある部分ではイエスと言えるし、またある部分ではノーとも言えます。
なぜなら知的関心の持続的な涵養は、その子どもの置かれた環境、即ちその環境から与えられる連続した体験のあり方によるからです。

難しい言い方をしちゃいました。
簡単に言えば、たとえば周囲に自然環境が溢れ、種々の生物・動物と触れ合う機会が多く、またそれらの生物、たとえば花の美しさや薬草の効用、動物の生態についてよく話されるような環境にいたなら。
その子は自然と、成長とともに自然科学への好奇心を深めて行くことになるでしょう。
逆に、ゲームやテレビといった間接的体験ばかりの環境に囲まれたまま少年期を過ごした場合。その子の関心は当然「メディア」に特化したものとなるでしょう。

誤解なく言っておけば、僕は後者が悪いとは思っていません。その「メディア」に特化した体験から、むしろ天才プログラマーが生まれないとも限りません。
単純に、体験のあり方が、その子の知的な関心のあり方を決めるというだけです。

さらに言っておくと、10代半ばの思春期少年と、10歳未満の子どもでは、環境の受け取り方、つまり体験の質も変わるに違いありません。
たとえば、それこそ不登校になって昼夜逆転し四六時中グロテスクなホラー映画をみている環境が良いはずはありませんが、十代の一時期には必要な場合もあります(はい、すみません、これは15歳時分の僕です)。

話がずれました。
要は強制があろうとなかろうと、知的関心を刺激する経験がある程度与えられているかどうか。
また、その経験が次の経験を呼び込むような形で、連関する形で与えられているかどうか。そういう環境があるか。

そうした理想的な条件が整う中で、少年期の学ぶことへの情熱は持続するのだと思います。
いや、いま「理想的」と言いました。
実際、普通のご家庭で、そんな環境を常に持続させることは難しいでしょう。
自然環境に恵まれた体験がたくさんあっても、今度は歴史や社会的な事象にまるで好奇心を持たないということだってありえます。

ただ、僕はある程度、そういう形でも良いと思っています。
何でも、オールジャンルにできる必要はない。
ただ、関心があまりに狭められていない限り、種々の体験からの刺激により、一つの関心がまた別の関心へと扉を開く、そういうことはあると思います。
現に僕は30代まで、理数系の学問には何ら関心を持っていませんでしたが、中年になってから、それこそ仕事含め色々な体験の結果、強く興味を持つようになりました。

いずれにせよ、椅子に縛り付けられたまま黙々と計算ドリルを解くような「作業」から、数学的な好奇心が生まれるとは思えない。
歴史の年号をただ暗記するところから、現実の日本社会への関心など生まれない。

そうではなく、実際にかつての遺跡を見て、変わってしまった町を歩き、現実の体験からから様々な空想をめぐらすなかで、知的な関心というものは生まれるのではないか。
そしてまた、その過程で生まれた疑問や関心について調べる中で、知性というものは育まれるのではないか。

僕がヒルネットを始めようと思ったとき、一方にあったのはそういう思いでした。
果たして自分が思い描いた通りに物事が進んでいるかはわかりません。
いえいえ、はっきり言って「理想」通りにはいつだっていきません。それが「現実」の「体験」なのです。

それでも、しんどいながらも毎週フィールドワークに子どもたちを連れて行きます。
今年の秋には「お祭り」の屋台を出して、子どもたちに実際に「仕事」をしてもらおうとも思っています。
教室のなかだけでは味わえない「体験」をたくさんしてもらおうと考えています。

それらのうちの一つでも、彼らに「学び」の芽をつくってくれたならば、それだけでもやって良かったと思えます。

それでは、それでは。

追伸
最近、というかついさっき、インスタグラムも始めてみました。
と、言いつつ、実はよくわかってません。
https://www.instagram.com/?hl=ja
気が向いたらフォローしてみてください。