当たり前だが「義務教育」は子どもの「義務」ではないんだぜ。

どうもどうも。
完全に夜になるともう寒くってコートとか必要だなあなんて思うことも多くなった今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は忙しくて死にそうです。

そう、マジで忙しすぎです。
ヒルネット朝からやって夜は夜でヨルネット(V-net)の個人レッスンで遅くまでレッスン。
なんとか週休二日は確保してるもののそのうちに1日はたまったメールを処理したりヒルネットの活動記録書いたりしてるうちに1日が終わる。
誰がこんな忙しくしたんだ!
自分です。
そう、全部自分が決めたこと。
なので、ブログぐらいサボろうってなことで暫く間が空いちゃった訳ですね。

ということで、以上、ブログ全然更新してへんけど死んでたんちゃうんか説に対する言い訳でした。
でもほんとマジでしんどいYO!

 

さて、うって変わって今回のお題。
シリアスなテーマ。
改行挟んで、突然、深刻な話題に行きます。

 

さてさて、これはつい最近、妻から聞いた話。
妻の息子幼稚園保護者友人から聞いた話。

ある朝、妻の友人が子どもを学校に送り出し、玄関前でなんやかんや用事をしていた所。
学校への登校時間がすぎた頃なのに、ランドセルを背負った小学生の女の子が、母親に連れられてマンションの廊下をとぼとぼと歩いていたそうです。

とぼとぼ、というのは印象論ではない。
実際、その足取りは遅く、顔は終始、俯き加減。
お母さんにせっつかれるように歩いていたということです。

やがて、エレベーターに消える親子。
数分後、母親だけが再びエレベーターから姿を表します。
おそらくマンションのエントランスまで娘を見送りに行ったものと思われます。

が。そのまた数分後。
なんと女の子の方がランドセルを背負ったまま、再びエレベーターから出てきてしまいました。
そのまま自宅の方まで戻って行ってしまいます。

ああ、もう余程、学校には行きたくないんだろう。
妻友人は思ったそうです。
そこまで行きたくないなら、1日くらいは休ませてあげたらいい。

ところが。
再び数分後。
先の少女が今度は母親に強く手を引かれながら、引きずられるようにして、歩いてくる姿が見えたそうです。
少女はずっと俯いたまま。
母親は決死の表情で娘を引きずってエレベーターへと姿を消しました。
その後、戻って来る様子はなかったそうです。学校までそのまま娘を引きずっていったのだろうか。。

どうでしょうか。この話。
話を聞いた際、僕は未だにそんな現実が、しかも東京であることに、正直、びっくりしました。
「不登校」については、そうは言っても、比較的「啓蒙」が進んでいるとばかり思っていたもので。

もちろん、これは知人からの又聞きです。
また、その親子に本当はどんな「現実」があったのかも、皆目わかりません。
あるいは、僕はびっくりしましたが、そうではない受け取り方もあるでしょう。

ただ、いずれにせよ、東京で、大阪で、あるいは多くの地方の町々で、きっと似たような出来事が毎朝起こっているのでしょう。
それは僕個人の経験と併せて言えば、30年前から今日まで変わらぬ光景なのかもしれません。

さて、それとは別のエピソードです。
これはいくつかの話を混ぜ合わせた話です。

その少年は確かに少し変わった少年です。
教室に45分間、なかなかじっとしていられない。
頭は悪くない。いや、むしろ賢い方だ。
だからこそ、自分が知っていることを教師が長々解説しているのに耐えられない。

それよりグランドで走り回ってる方が楽しいじゃないか。
草花に止まる昆虫を観察してる方がためになるじゃないか。
図書館で本を読んでる方がずっとマシな時間になる。

そう思ったら、もう彼は止まりません。
教室を勝手に出て行ってしまいます。

当然、教師は問題視する。
集団行動に反することだと言い、彼を叱責する。

いや、そこまでは良いんです。
いや、良いかどうかはともかく、「昭和の昔」からよくあることではありました。

ところが、彼の場合はそれで終わりませんでした。
まず、親が呼び出される。
呼び出された上、こう告げられる。

お子さんはウィスクのテストは受けられましたか?
発達に障がいがあると告げられませんでしたか?
お薬は飲ませていますか?
すみませんが、お母さん、毎日お子さんの様子を見にきてくれますか?
それができないなら、今度の催しに、ご子息を参加させるのはご遠慮願えませんか?

上に書いたように、これは個人のエピソードではありません。
いくつもの、僕が直接相談を受けた方の話を混ぜ合わせています。

ですが、逆に言えば、同じようなケースが、まさに「いくつも」存在しているということです。

どうでしょうか。
こちらの話も、そんなことには縁遠い保護者の皆さんはびっくりするかもしれません。
実際、全ての小学校がこんな状態ではない。
しっかりとした教育理念をもつ校長先生がいらっしゃる学校では、こんなことは起こりません。
ただ、こうしたエピソードもまた、現在に日本の教育現場では、今日も明日も「いくつも」起こっている出来事なのです。

 

さて、ところで今回、この二つの対照的な話を紹介したのには、わけがあります。
一つ目の話は、「学校に行きたくないのに無理に行かせられる子ども」のお話。
そして、もう一つは「学校の側が子どもを排除しようとしている」お話です。

一見、対照的な二つの話。
ですが、双方に実は共通点があります。
それは、子どもの心を大人がなんの躊躇もなく土足で踏みにじっているという点です。

そう、実は僕は猛烈に怒っています

さっきは嘘を書きました。
どんな事情や現実があろうがそんなこと知るか。
どうしても学校に行けない子どもを引きずって学校に連れて行くのは「親」の「仕事」ではない。しつけでもない。暴力だ。
ただ、その子どもの心に暴力的な「傷」を追わせるだけの行為だ。

教室にじっとしていられない子どもを簡単に「障がい」扱いするな。
「ちょっと変わってる」からって、それを排除するな。見放すな。
そしてあからさまに「見放してる」と親に告げるな。そのことで涙を流す母親の気持ちがどんなものか想像できるか。
たった一人の、愛する我が子を「邪魔者」扱いされたときの親の気持ちがあんたらにわかるか。

 

「義務教育」という言葉があります。
これは教育基本法第四条の「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う」との条項をもととします。
さらに、この教育基本法第四条は、憲法第二十六条「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という内容に基づいています。

ここからもわかる通り、たまに勘違いしてる人がいますが、「義務教育」とは「子どもの権利」を保証したものです。
子どもには適切な教育を受ける権利がある。
そして、保護者にはその権利を保護する「義務」がある、というわけです。

こうした規定ができた理由は、近代以前の「子ども」というのが安い「労働力」であったためです。
特に貧困層の子どもに教育を受けさせず、労働を強いる大人、環境が存在したためにできたのが「義務教育」の理念だったのです。

だから、当たり前ですが、子どもを無理に学校に行かせるのが親の「義務」なのではありません。
そうではなく、子どもがちゃんと「能力に応じて、教育を受けられる」環境を整えてあげることこそが親の「義務」なのです。
それには学校以外の場所だってたくさんあります。

ましてや、子どもを「見放す」のは、「義務教育」を司る機関としては、決してやってはいけないことです。
いや、それは本来、子どもたちと関わるあらゆる「大人」の「構え」としてあってはならないことのはずなのです。

にもかかわらず、どうしてこんな事態が三十年経って今なお続いているのか?
どうしてこんな「排除」がまかり通るようになってしまったのか?
まして、後者は近年になって明瞭に現れてきた事態と言えるでしょう。
それが「原因」となって不登校に「させられた」子どもたちすら存在する。

頭が痛い、悩ましい、などと呟いているだけでは変わらない「現実」がここにあります。

それでは、それでは。