疫病と流言蜚語:あるいは世間の「空気」と教育について

どうも、どうも。
皆さんどんな感じでお過ごしでしょうか。

珍しくもブログをまめに書いている。あ、さては例の「休校要請」によって暇になったんだな。
と思った貴方。
あにはからんや、僕はいつもと変わらず子どもたちと良くも悪くも忙しい「日常」を送っています。
つまるところ僕の運営する少人数フリースクール、ヒルネットもいつもと変わらず平常運転、「日常」の活動を粛々と続けております。

何ということだ、この国家の一大事にけしからん、とお怒りの方がもしいたら、こちらをお読みください。そうなった理由について書いてます。

で、ヒルネットのことは上で書いてしまったので、今日は共通するテーマを扱いつつも、もうちょっとだけ幅広いお話を。
いや、まあ、そんな大した話じゃないんですけどね。

 

つい先日、西荻窪の駅を降りると、目の前の薬局に長蛇の列ができておりました。
こりゃまたどうしたんだろうマスクの一斉入荷でもあったのかなと思い少しばかり観察を続けていると、どうやらそうではない。
皆、抱えているのはティッシュの箱にトイレットペーパー。
そう先日、話題になってた「ケツ拭き紙買い占め騒動」の一端に出くわしたわけだったんですね。

あれ? でも、ティッシュとかがなくなるとかって噂はデマだったんじゃなかったっけか?と思っておったら、その翌日か翌々日、奥さんから聞いたのは、スーパーに行ったら、米がなくなっていたという話。
さらにさらにその翌日には乾麺までなくなってるじゃあないか。

そこで僕は確信したわけです。
なるほど。新種の肺炎ウィルスが流行っていると聞いたけれど、これはどうやらそうではない。そうじゃなくてこれはマジやばいやつであれだ、感染ったらみんな気色悪いゾンビに変異して人の脳味噌とか食べたくなっちゃうやつなんだそうだそうに違いない、だからみんな家にこもってゾンビと戦うべく買いだめしてるんだな!

もちろん冗談です。
不謹慎? そうです、残念ながら僕は人が深刻そうに真面目な顔してると何だか笑いがこみ上げてきて仕方なくなり葬式中吹き出しそうになってしまったりする大変不謹慎な人間なんですね、どうも生まれてきてすみません。

 

まあそんな僕の歪んだ性格は別として、このパニックは何でしょう。

思い出したのは、およそ10年前の出来事でした。
デマの驚くべき拡散や、あるいはデマをデマと知りながらも自己防衛に走らざるをえない人々のありよう。そしてもちろんその原因となっている政府による情報の出し方の「細切れ感」。

そう、僕が思い出したのは、3.11のときのことです。

といっても、これは被災地である福島や、そこから遠く離れた名古屋や西日本の人々には当てはまらない。厳密にいって、311の折の東京周辺の人間、世論の反応です。

あの時、東京では、人々が「放射能汚染」を恐れ、外出を控え、子どもたちの姿は公園から消え失せ、インスタント食品は買い占められ、ガイガーカウンターが飛ぶように売れました。
「絆」とかいう軽薄な言葉を合言葉にやっぱり自粛自粛自粛と騒ぎ立てたのもあの時でした。

 

当時、僕は清水幾太郎という戦中戦後の社会学者の『流言蜚語』という本を、とある理由で読んでいました。
311の折の「流言」の拡散に嫌気がさしていたせいだったか、全く別の理由だったかは思い出せません。

清水はこの本の中で、「流言蜚語」が飛び交い、しかもそれが一定以上の力をもつ状況として、一般の人々が限定的にしか情報の与えられぬ事態に遭遇した場合を挙げています。
その上で、その限定的情報の中で、さらに一見すると辻褄の合わぬいくつかの情報が示されることにより、人々が情報と情報の間の「溝」ないし「矛盾」を、それぞれの「利害」に即応した想像によって埋めてしまう結果、「流言」が力をもつようになると述べています。

政府の出す情報への信頼が揺らぎ、一方のマスコミ報道も不安を煽るばかりで正確性に欠けるように見える。そして代わりに、人々はツイッター等のSNSで、断片的、かつ相互に「矛盾」するような情報を発信する。
それを受け取り読んだ人々は、それぞれが自分の「信じたい」ように「情報」を繋ぎ合わせ、また新たな「流言」としてそれを発信する。

311の折、清水の分析がまるで当時の状況について書いたもののように感じたことを覚えています。
そして、その感触は、今、奇妙な既視感とともに蘇ってきています。

 

しかし、重要なことは、清水幾太郎の分析内容自体ではない。
むしろ彼がそれを書いた時期こそが重要です。清水が「流言蜚語」に関する文章を最初に書いたのは、2.26事件の直後でありました。

2.26事件。
それは1936年に陸軍の皇道派と呼ばれた青年将校たちの起こしたクーデター未遂事件です。
この事件の翌年に日本は日中戦争を開戦、やがて太平洋戦争へといたる戦争の時代へと突入していきます。

クーデター未遂事件と、おそらくはその後に飛び交った「流言蜚語」。それを一つの契機として、一層、大衆の世論が、陰鬱かつ攻撃的なものへと深刻化していった時代。
つまるところ、清水の著作はそうした時代を撃つものでした。

では、そんな時代に書かれた本を読んで共感してしまう311後の東京とは、どんな場所だったのでしょう?
そして再び、その書を読み返すことになった今日の事態は?

 

念のために言っておくと、僕は人が未知のものに対して不安を感じること、それ自体を責めたいわけではありません。
当たり前ですが、置かれた状況いかんによっては、その「不安」は実体のあるものでもあるだろうからです。
今回のウィルスの件で言うなら、例えばもし自分が種々の基礎疾患をもつ家族を抱えていたならば。不安にならない人間などいるはずがないでしょう。

そして、また一定の条件下で「流言」が飛び交う事態も仕方がないことなのかもしれない。
実際、上記の清水の著作は、それが必然的に生じる状況について分析した本でした。

 

ですが、だからと言って、いやだからこそ、その結果、特定の誰かがどこかで音楽のライブを決行したからといって、それを過剰に責め立てるような「蜚語」を許してはならないと思います。
「身勝手な芸術家たち」が舞台に立ち続けられるよう願った演劇人を叩くことで「正義」の側に立ったかのような陶酔に浸るべきではないのです。

「蜚語」によりパニックを煽られた結果、「世間」なるものが同調圧力を強め、例えば過剰に「自粛」を求めるような「空気」を作り出してしまうこと。
その「空気」に反する行為をとるものを「非国民」「売国奴」などと罵る輩が出てきてしまうこと。
そのような動きに対しては、少なくとも僕自身は、やっぱり断固として抗う必要があると思っています。

なぜなら、そのような「空気」こそが、おそらくは1930年代の清水幾太郎が感じていた「空気」だからです。
その「空気」が、日本をかつてとんでもなく無謀な道へと走らせたからです。その「失策」は為政者が無能だったからだけでは決してない。

 

どうも最初に書こうと思っていたことから脱線して、妙に政治社会的な記事になってしまいました。
最初に書いたように、僕は葬式中に吹き出しそうなるような「不謹慎」極まる人間です。
「前ならえ」と言われたら、後ろを向く方が正しいんじゃないかなと思ってしまう捻くれ者です。
そんなだから学校のような集団行動にもついていけなかったのかもしれません。

でも、ひょっとすると。
本当にひょっとすると。
僕が、何の因果か、子どもたちの「教育」に少しく携わることになった理由。
それは「世間」の「空気」に抗うような、そんな「不謹慎」な人間を一人でも多く育てたかったからなのかもしれません。

それでは、それでは。

 

 

 

 

 

 

学びは「体験」と「仕事」から

どうもどうも。
ようやっと秋が訪れるのか?という半信半疑な気分で過ごす10月第2週目の現在、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はちょっと多忙すぎですどうしましょう(って知るかですよねハハハハハ……)。

さて、今日のお題は久しぶりに単純に「学ぶこと」について。

ところで、突然、宣伝ですが、僕が昼間にやっているヒルネットという「スクール」では、いわゆる「勉強」は強制しません。
かといってサドベリースクール的に、完全に「自由」というわけでもなく、いわば僕が「巻き込む」ような形で、色々な体験をしたり種々の物事を考えてもらったりはしてもらってます。
フィールドワークに行くことや、特定のテーマについて対話すること、「散歩」すること、そしてまた場合によっては「ヘイ!Kクン! 今日は日本の地理について学んでみようYO!」ってな感じで誘って「勉強」することもあります。

でも、やりたくない子はやらなくていい。
今日はちょっと気分が乗らないって日は、自分の好きなことをしていてもいい。
各自がその日のプログラムを自分で決めるのが「原則」です。

こういう形になっているのは、そりゃ古典最新の教育書を読んだり種々の施設を見学させてもらったりと色々準備段階で考えていたことも反映されてますが、結局は通ってくれている子どもたちの「個性」に合わせてつくりあげられていってる部分が大きい。
「アタマ」で考えていた通りにならないのが「人間」を相手にする教育ってもんなんですよね。良くも悪くも。

閑話休題。
でも、まあそういう「自由」な状況から、主体的な「学ぶ」姿勢、力みたいなものが生まれていくには、当然、時間がかかるわけです。
小・中学生ぐらいの年齢なら特にそう。

でも、実はこれって「ふつうの学校」に行っていたり、あるいはヨルネット(V-net個人レッスン)に通ってくれている子だって同じことなんですよね。
一日学校で教室に座っていたって、やる気のない授業、教科については、アタマの中で宇宙旅行に出かけていれば、何も入っていません。
「真面目」な子は、それでもテストや宿題を頑張るかもしれないけれど、そうでもない子は何にも「学んで」などいません。
酷い場合は、ただ「情報」を「苦痛」とともに受け取っているだけです。いや、情報すら入っていないケースが多いかも。。。。

個人レッスンの場合にだって、学ぶ気持ちゼロみたいなお子さんの場合は、大変タイヘン工夫が必要です。
そりゃ、学校やスクールと違って、一応「勉強」することを「目的」に通ってくれているわけだから、最初から「やる気ゼロ」みたいな子も珍しいわけですけど、それでも基本、小・中学生は親に言われてきてるわけです。場合によっては仕方なく。
だから、そんなに「主体的」なわけではやっぱり、ない。

そういう意味では、環境が「自由」であろうと、「強制」されていようと、主体的な「学ぶ力」みたいなものを養うのは、どうであれ難しいことに変わりはないわけなんですな。

だから、当然、子どもたち一人ひとりに合わせた工夫が必要なわけなんですが、そのケースバイケースを全部ここに書ききれるもんじゃない。
ただ、そのなかでもやっぱり核になるような大切なものがあるとは思います。

その一つが、やっぱり「体験」です。
例えば、地理や歴史はさっぱり覚えていないのに、植物や動物、果ては恐竜、古生物のことについては大人よりはるかにたくさんのことを知っている。
あるいは逆に、算数の計算は大っ嫌いだけど、歴史に関することを話すと目をキラキラさせて話に聞き入る子どももいる。

そうした子どもは、自然環境豊かなところで育ったのか。幼稚園のころ、たくさんお散歩に出かけたのか。昔、遊びにいった動物園がとっても楽しかったのか。
それとも歴史に関するマンガを読んで、実際、お城を見に出かけたのか。田舎のお祖父ちゃんの古い家に興味を持ったか。それとも、古い軍刀や日本刀を見たことがあったのかもしれない。

何がトリガーになっているのかは、はっきりはわかりません。
ひょっとすると、それは上記のような判りやすいものではなく、親も気づかないような些細なものかもしれない。
子ども同士の「遊び」のなかにあった小さな出来事かもしれない。

しかし、そうした幼少期、少年期の「遊び」の「体験」がきっかけとなって、またそれに関する書物等により「体験」が「追体験」される歓びを知ることによって、子どもたちはいつの間にか、ある特定に興味関心についての「博士」になっていくのだと思います。

主体的な「学び」とは、そういうものではないでしょうか。

そして、そういう「学び」を得た子どもたちは、長ずるにしたがい、「苦手」なジャンルのなかにも、関心の芽を育てる「力」を身につけていきます。
少なくとも、この二十年ほどの間、僕から見て「優秀」だと思える、今や立派な青年となった子どもたちは、皆そうでした。これは断言できることです。

そして、もう一つ。大切なこと。
それは「仕事」です。

「仕事」といっても、強制される「作業」じゃない。
だから、それは僕たち大人が(人によっては?)イメージする「仕事」とは別のものです。
例えば、英語の「Work」という言葉は、もちろん「作業する」という意味もありますが、もう少し広い意味で使われることも多い単語ですよね。
「作品」とか「研究」とか、「取り組み」みたいなニュアンスでも使います。

例えば、文章を書く練習をするのに、ただ「作文を書きましょう」と言ったって、やる気が起きるわけがない。
なぜって、そこには目的がないから。文章の先の読み手もいない。誰かを楽しませようという動機もない。
そんな文章、誰が書きます?

でも、そうじゃなくて、「小説」を書くのなら? ブログを更新するのなら?

このブログだってそうですが、どこかの誰かが読んでくれている、という確信があるから書いているわけです。休み潰して。
そんなに読者は多くなくとも、月に1000人くらいは読み手がいる。そう思うから書いています。

子どもだって同じでしょう。
誰かのための、不特定多数の読者のためのブログなら、書く気も起きるかもしれない。
小説は?
じゃあ、それをきちんとどこかの賞に応募するのが良いかもしれない。
今の時代なら、そういうサイトに投稿するのもいいかもしれない。

実は最近、ヒルネットでは、子どもたち、そして僕らスタッフ含めて、「坊ちゃん文学賞」というショートショートの文学賞に応募しました。
これも子どもたちと相談して決めたことですが、どうせ書くなら、確実に読んでもらえる文章を書こう。その点、賞なら下読みの人含めて、必ず誰かに読んでもらえるわけです。

しかも、これはほんとに「仕事」なんです。
この賞の賞金は大賞で50万円! これを獲ろう。獲って賞金で沖縄にみんなでフィールドワークに行こうじゃないか!というのが最初の企画でした。
もちろん、みんな本気で賞金が取れると思ってるわけじゃない(と思いますが。。)。
でも、そういう、なんというか明確な「ゴール」というか「目標」があるのが、「仕事」において重要な要素だと思います。

実際、これはヨルネットで教えている高校生の話ですが、彼は昨年、中学三年の折に、学校課題で出した松本清張の感想文が、なんと松本清張記念館主催の賞を受賞、賞金図書券3万円をゲットした上に家族博多旅行交通費を手に入れることになりました。
そのおかげで、今年の夏にはやはり松本清張の感想文を、今度は課題とは関係なく仕上げ、さらに別にショートショートの小説二本を、これまた学校の「強制」とは無関係に書き上げ応募しています。
この彼は、小学校時代、都立中高受験の作文が苦手だったために習いにきた生徒でした。
その彼が今では、まさに「主体的」に文章を書くまでになったのです。
それは、彼が文章を書くことを、作業ではなく「仕事Work」=「作品」に取り組むことだと理解してくれたからなのです。

また「仕事」には、個人ではなく、集団で行うものもあります。
これまたヒルネットの話で恐縮ですが、僕たちは、この10月の20日、杉並区が主催する「杉並舞祭り」というお祭りにキャロムを中心としたゲームとアクセサリー販売の屋台を出店する予定になっています。
これの企画、内容も皆である程度話し合って決めた(というか決めている途中)なのですが、やはり例えば、アクセサリーを作るのが苦手な子もいれば、そういう場所で赤の他人(しかも相手も子どもだったりする)と話し販売するのが苦手な子だっている。
でも、そんな子たちも、それが皆で決めた「仕事Work」=「務め、取り組み」ならば、なんとか自分なりに何か作ろうとするし実際、みな販売参加するのを楽しみにしています。
手前味噌な話ではありますが、家庭科の時間の裁縫のような強制された「作業」とは違う、「仕事」の喜び、協働することの「学び」が確かにここにはあると思います。

このように、目的のない強制された「勉強」とは違い、自分から何かしらの目的、目標を定めて行う「仕事」には、やはり何かしら主体性の芽を育む力がある。
それは文章を書くような、直接的な「勉強」にかかわるケースもあれば、お祭り出店のように、勉強というよりは、社会的な協働性のような、間接的な「学び」を得るものもあるでしょう。また「手作業」をすることによる創意工夫の「学び」でもあるでしょう。
しかし、そのいずれもが、現実にこの社会に出て生きていくために必要な「学び」だと思います。

そのような「学び」を主体性をともなった形で得られるようにする、その一つのフレームが、この「仕事」という、これまた一つの「体験」なわけなんですね。

どうでしょうかね。
まあ、前回も書きましたが、私だってまだまだ修行中の身です。
今回は、「体験」と「仕事」という二つのフレームから書きましたが、もちろんこれら以外にも、子どもたちの主体的な「学び」を引き出す工夫はたくさんあると思います。
このブログでも、それこそ僕自身の「体験」のなかで、そういうものに気づいていけたなら、またご紹介しようと思います。

それでは、それでは。

 

「発達のでこぼこ」具合と「不登校」と『サーミの血』

どうもどうも。
ついに梅雨が開けたと思ったら昼食に使う長ネギを買いに出かけただけで熱中症になりそうなほどのクソ暑さに見舞われている東京ですけれども皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はもう何もしたくありません。

さてさて、先日の記事ではちょっと不登校について、改めて色々考えてみたわけですけれども、そもそも日常の学校生活に「疲れる」って言うけれども全然そんなことない、めっさ楽しく学校生活送った記憶しかないわいって方もおられるかと思います。いや、今の小学生、中学生にだって当然います。

例えば、御歳73歳となる我が父もそうでした。今から60数年前(すごいな)の我が父は運動会の徒競走でダントツビリを走りながらも笑顔でゴールインするような超ポジティブ小学生だったそうです(なお、その遺伝子は我が甥子に受け継がれている模様)。
ところが、そんなポジティブ学校生活を送った人の息子が突然、不登校になる。なんか理由もはっきりしない。
はっ?なんでやねんそれ?となるのも当然ですよね。

じゃあ、例えば「登校」を「拒否」しちゃいたくなちゃった子は、そもそもどうして「疲れる」のか?
いや、別に「不登校」にならなくてもいい。
学校生活が「しんどい」と感じるのは何故なのか?

そりゃ、もちろん原因はホントに様々です。
が、前の記事でも少し触れたように、その一つに、いわゆる「発達のでこぼこ」具合ってやつが少からず関係してることもあるでしょう。

と言ったって、僕は最近の、ウィスクの結果がどうだとかグレーゾーンが何だとかADHDがどうこうだとかって言説傾向は、あんまり信用してません。いや、それぞれにフォローが必要だとしても、過剰に深刻な形では捉えません。これは昔の記事にも書きました。

というより、僕が特殊なだけかもしれませんが、僕の実感では、生徒はもちろん、自分の子やその周囲の友だちとか皆んな引っくるめて、少なくとも小中学生の6割くらいの子は、何かしら「発達」が「でこぼこ」してます。
そして生徒に関して言うと、多くの場合、良くも悪くも、高校生くらいになると、なんか「ふつう」になっちゃいます。いや、ほんとに良くも悪くも、ね。

だから、前もって言っておくと、僕はこの「発達なんちゃら」とかって呼ばれるようになった子どもの「でこぼこ」具合は、ある種の「個性」の発露だと考えるようにしています。
そうした「個性」は、短所として目立ってしまうこともあれば、長所として捉えられることもある。
単純作業が嫌いな代わりに好きなことならずっと集中してられる、とかって具合に。

 

ところが。
この「個性」が長所よりも、どうしても短所として目立ってしまう場所がある。
それが「学校」をもその一部とする、「近代の規律・訓練型の社会制度」なんですね。おっと、ちょっと難しい言い方だな。

わかりやすく言えば、「一週ぴったり7日間の1日24時間中、毎朝何時に起きて何時の電車やバスに乗って何時に仕事や学校行って、似たような課題をこなしたら夜もだいたい決まった時間に帰宅して、これを5日間続けて土日はふつう休息日」みたいに、毎日の生活が一定のルールやリズムのもとに規律正しく行われ、しかもそれを自発的に行えちゃう社会のあり方。
これがいわゆる「近代の規律・訓練型の社会」と、政治哲学で言われるものです。

ところが、この近代社会の「一定のルールやリズム」ってやつは、大昔から存在してたわけじゃない。
長い世界史の中で見れば、「つい最近」習慣化されたものにすぎません。
近代の中で徐々に形成され、全面化したのは、世の中の人間の多くが「工場」、そして「会社」で働くようになってからのことなんです。
日本で言えば、大正時代、つまりたったの百年前です。
少なくとも、例えば日本人は、百年前までそんなふうには生きていなかった。

このことに関して、ある映画を紹介したいと思います。
その映画は、『サーミの血』。
2017年公開のスウェーデンを舞台とした映画なんですが、とっても良い映画です。

ネタバレしない程度に簡単にあらすじを書いておくと、北欧でトナカイ狩猟を生業とするサーミ人の少女が、「差別」に抗して、スウェーデンの「街」での自由な生活を求めようとする、ってな感じの話。
で、物語の表面的なテーマは、やはりサーミ人とその「差別」についてなんだと思うんですが、隠れた裏テーマとしては、そうした狩猟民族から見た「近現代社会」の異様さなんじゃないかと僕は思いました。

その点については、象徴的なシーンがあります。
サーミ人の少女が初めて「街」の学校の授業に出ようとするシーンがあるんですが、その授業の内容が体育。
そして、その体育の最初に、生徒全員がメトロノームのリズムに合わせて変てこな体操(準備体操?)をするんです。
で、そんなのやったことない主人公は、当然、周りについていけない。

でも、このシーン、異様に見えるのは、体操についていけない主人公ではなくて、むしろ周囲の「ふつう」の生徒たちなんですね。
カチッカチッというメトロノームの規則的なリズムに合わせて、皆が皆、教師含めて完璧に、一糸乱れず同じ動きをする。
なんとも言えない不気味さを感じさせるシーンです。

この場面には、「毎日同じ時間に起きて同じ電車に乗って同じような仕事をする」近現代社会に対する明確な批判が込められていると思います。
もちろん、他の場面、ストーリーのなかでも「街」の「気持ち悪さ」は強調されます。
それに対して、サーミ人たちが暮らす自然の雄大さの美しいこと。

つまるところ、ある種の「個性」をもつ子どもたちが学校生活に「疲れる」のは、そうした「一定のリズム、ルール」のなかで活動することに対する「しんどさ」があるからではないでしょうか?
「メトロノーム」のリズムに合わせて、他の人と同じ「動き=課題」をするのが「しんどい」のでは。
少なくとも、僕は今でも「しんどい」と感じてしまいます。

おいおいちょっと待て。だけど「学校」というものは、多少の特殊性はあったとしても、まさしくここで述べている「近現代社会」の雛形ではないのか?
多少「しんどく」とも、そこに合わせることが、実際の「社会」で生きていくためには必要では?
そうした疑問もあるかと思います。

おっしゃる通り。「学校」はまさしく、そういう意味ではある種の「社会」の雛形だと思います。
例えば、大きな企業に就職したり、そうでなくとも一定の組織のなかで安定的な職業に就こうと思うなら、「学校」は簡単に「拒否」していいものではないのかもしれない。
実際、上に書いた僕の父親は、いわゆる「大企業」に40数年勤めておりました。
それに対して、息子の僕は、40過ぎても、ゆるゆるフワフワ生きてます。

たけど、当たり前ですが、僕はこんなふうにも思います。

別にゆるフワ生きるのが良いとは全く言わないけれど(いや、ホントに。それはそれでしんどい)、一方で必ずしも「大きな組織」の中で生きるのが絶対に幸せだとも限らない。
「街」で「ふつう」に生きるのが苦手なら、自然のなかでトナカイを追う生活をしたって良いじゃないか。

いえいえ。これはもちろん、価値観の問題です。
その子、その人が、どんな生き方をしたいかの問題です。

ただ、少なくとも僕は、彼や彼女のもつ「個性」を、単に「短所」としては絶対に捉えたくない。
それを「短所」としてしか見られない場所に彼女を置いておきたくない。

計算ドリルをこなすのに2時間かかってしまうけれども、彼女の描く絵はとても美しい。
他人の気持ちを上手く察せないかもかもしれないが、彼の意見はいつだって正直なものだ。
気の向かない作文は全然書けないけれども、電車のことだったら誰よりも詳しく書ける。
反復作業は大嫌いだけど、一つのアイデアに夢中になったらいつまでだって考えられる。

これら子どもたちの「個性」は間違いなく「長所」です。

「大きな街」で「メトロノーム」に合わせて動くのは苦手かもしれない。
だけど、それなら大自然のなかでトナカイを追う暮らしを望んだっていい。少なくとも、僕はそう思います。

そして、その暮らしはきっと、やはり映画のあるシーンで描かれるように、明るく優しい陽光に満ちたものとなるはずです。

それでは、それでは。

 

対話する力について

どうもどうも。
すっかり梅雨っぽい感じで毎日グズグズとうっとおしい天気が続いておりますが、みなさんいかがお過ごしですか。雨が嫌いな僕は梅雨ももちろん大嫌いです。頭痛くなるし。

ということで、今日の話題。
しばらく、ちょっと重めの話が続いていたので今日は軽めの内容で。

とはいえ、軽めの話題といっても不真面目な内容というわけじゃない。
テーマはずばり、対話する力について。

いつもながら手前味噌な話で恐縮なんですが、僕の授業、というか、日中やってる「ヒルネット」の活動だったり、土曜のグループレッスン「読書のWS」だったりで、特に意識して子どもたちに取り組んでもらってるのが、この対話。
つまり、議論する力なんですな。

例えば、ヒルネットで「自由とルール」「『法』と『礼』」の関係について議論したり、読書WSで「DV男とそれを殺した殺人犯、どちらが悪か?」なんてことを話し合ったり。
もちろん、まだ小学校高学年くらいの子どもたちですから、冗談みたいな話も絡めながら和やかに話し合うわけですけど、ときにはこちらがびっくりするような鋭い発言だってある。
そういうとき、僕が大切にしてるのは、「答え」を決して言わないこと。
というより、上のようなテーマに、簡単な答えなんて、誰だって普通は用意できません。
僕はあくまで、子どもたちの発言を引き出すコーディネート役に徹しているわけです。

僕がこういうことに力を入れているのは、もちろん僕自身が色々な学問的?テーマを考えることが好きだから、ということもありますが、同時に子どもたち自身にも、ふつうに生きていると思いつかないような「疑問」に出逢ってほしいから。
そして、そうした疑問について、自分とは全く違う考え方、感じ方をする人間が、大人を含めているのだということを知ってほしいからです。

さて、こうした対話力。議論する力、とでも言いましょうか。
まあ昔っから言われることですが、日本人はこういう力がなかなかない。つまり議論が下手で意見が言えない、とよく言われるわけです。
僕の実感としても、6割くらいはほんとのことかな、と思います。

必ずしも議論が下手だったり嫌いだったりするわけじゃないとも思います。が、一方でそういう作法を幼少の頃から教わっていないことも事実。
例えば、僕が教えているインターナショナルスクールに通う生徒なんかに聞くと、向こうの学校では必ずディスカッションの授業があるそうです。
指名された生徒に議論させ、他の観客生徒がどちらの意見に説得させたか、その数で勝敗を決めるという、なかなかにシビアな授業なんです。
これ、なかなか日本の学校では成り立ちにくそうですよね。

さらにいうと、僕は、多くの日本人は議論自体が苦手、というよりも「知らない他人の前で自分の意見を言うこと」が苦手のように思います。
つまり、仲間同士やある程度、気心の知れている人間同士の間では、色々な話し合いはできる。意見だっていう。
けれども、自分がよく知らない場所や、専門外の知識を要する会合では、できればつまらないことを言って恥をかきたくないと思ってしまう。

まあ正直、僕も狭い日本社会に育ってきた人間なわけでは、こうした実感がほんとかどうかは判りません。
外国人だってそうだよ、と言われれば、そんな気もするし。

それでもやっぱり、あくまで僕の実感、体験としては、日本人は意見を言わないなあ、と感じたことは結構あります。
昔、放送大学というところで政治学のスクーリング授業を非常勤講師として担当していたことがあるんですが、そのおり、だいたい講義が終わりに近づいたころに、僕は毎回「今日の内容で何か質問はありますか?」と投げかけることにしていました。
が、そういう場合に質問が返ってくるのはほんとに稀。たいていシーンとしちゃうんですよね。
相手が二十代の学生諸君なら、まだわかる。
ですが、放送大学のスクーリングに通っているのは、ほぼ大人、だいたい40代〜70代ぐらいの経験を積んだ大人な訳です。
それでも、ほとんどの人は手を挙げない。ああ、日本人って、ほんとに質問したり意見をいったりするのがキライなんだなあ、と感じました。

いや、繰り返しますが、これはあくまで僕の実感。
大したことない少ない経験からの実感です。ほんまはそんなことあらへんのとちゃう?と言う異論反論は当然受け付けます。

それはともかく、僕はやっぱり意見を言わない、言えない。さらに言えば、誰かに反対する意見、それこそ異論や反論を口にできない体質、というのは、大変もったいないことだと思います。
それは江戸期以降の日本人の文化的体質かもしれませんが、一方で、もしそれが日本の教育上の慣性のなかでも養われているとするなら、すぐにでも改めていくべき案件でしょう。

というのも、人間の「思考」というものは、実は一人だけでできるものではないからです。
昔、僕の学問上の師匠とも言える先生が、あるゼミの折にこんなことを言っていました。

「君たちは自分が何かを考えていると思っているだろう? しかし、それは嘘だ。まず、思考は表現されなければならない。口に出されねばならない。でなければ、それはただの形を取らないもやもやとした妄想だよ。
そして次に、その君たちの意見、考えが本当に君たち自身で考えたものであるのか、自分に問いかけてほしい。きっとそうじゃないとわかるだろう。
例えば、ある物事、ある社会的問題について、君たちが先ほど口にしたことは本当に君自身の意見だったろうか? それはひょっとして昨日読んだ本の意見をそのまま自分の考えと錯覚して口にしたものだったのではないか? それとも昨晩みたテレビのコメンテーターがちょっと口にしたことを知らぬうちに君の意見だと考えてしまっているのでは?
いいかな諸君。もしそうなら、君たちはまず君たちが思わず納得してしまった論者の意見に、あえて反論することから始めることだ。
そして何よりも、今、君が正しいと感じている意見に反対してくれる人と対話すべきだ」

この先生は僕が知っている人間のなかでは圧倒的な教養と知的アイデアを持っている方でしたが、一方で超がつくほどの変人でした。しかもすっごく怒りっぽい。
その上、彼はアメリカの大学でも教鞭をとっていた経験からか、日本人が発言しないことを非常に嫌っていました。
ですから、ゼミは常に緊張につぐ緊張の連続。
先生が質問はないか?という具合に沈黙した際、ゼミ生からの発言がなかったりすると烈火のごとく怒り出すのです。
怒り出した挙句、返ってしまったこともあるそうです(僕は幸運なことに現場にいませんでした)。

今でもゼミ初日の日の緊張を思い出すくらい怖い先生でしたが、おかげで僕はどんな場所に言っても何かしら「意見を言う」(ほとんど強迫神経に近い)癖がつくようにまりました。
そして、後々の人生の経験からも、それは本当に大切なことだと感じるようになりました。

弁証法、という哲学の思考法があるように、人間の思考というものは、一人でただ考えていても、やがて壁にぶつかるか、あるいは勝手に「自分(だけ)が正しい」という独我論に陥るだけです。
自分の考えを他者に話し、他者から批判され、そしてその批判を受け入れて新たな思考に至る。
あるいは逆に他者の考えを聞き、それに反論するうちに、新たに自分の思考がまとまることもあるでしょう。

社会的動物としての人間は、これまでも、これからもそのようにして、文化を、文明を築くものなのだと思います。

そう。
だから、まず最初に意見を言わなければならない。
他人の反論を恐れてはいけない。誤りを指摘されて恥じる必要もない。
意見を異にする他者は別の思考に目を開かせてくれるはず。
誤りの指摘は、さらに知的な関心を深めさせてくれるはず。

だから、最初に発言をしよう。質問をしよう。

そう、子どもたちに繰り返し伝えていきたいと思う今日この頃です。

それでは、それでは。

 

ゲームとかテレビとかyoutubeとか。

どうもどうも。
ようやくまあまあ涼しくなってきて何となく秋の雰囲気が漂い出した今日この頃、皆さん如何お過ごしでしょうか。僕は風邪を引いたのか喉が痛いです。

さて、今日は少々、真面目な話題です。
お題はズバリ、ゲーム。あるいはテレビ。それともyoutube。

さて、こんなお題を思いついたのも、この夏、実家のある関西に帰ったからなのですね。
関西の奥さんの実家に数日暮らしていたところ、娘・息子と仲の良い、そして僕も赤ん坊の頃からよく知っている甥が訪ねて来てくれました。というか、ほぼ毎日いました。
甥は今年、小六。
でも、別に受験とかはしないので、お気楽に暮らしています。
で、この甥はなかなか賢いし性格はめっちゃいいし母親思いだし、叔父の僕がいうのも何ですがズバリ素晴らしく感じの良いヤツです。女子にはモテないみたいですが。

だが、しかし。
これがね。今年は、めっちゃゲームやってるんですよ。スマホで。あるいはめっちゃyoutube見てる。

まあ人様の家庭のことだしプライベートだし特に困って相談されてるわけでもないので、何も口出しはしませんでしたが、やっぱり、ちょっとねえ。。。

ちょっと、残念な感じはしましたよ。

というのも、やっぱりゲームにしろyoutubeにしろ、こういうメディアは子どもたちの大事な大事な「暇つぶし」の時間を奪っちゃいますからね。
え、暇つぶしにゲームやって何が悪いねんアホか、と思うかもしれませんが、そんなことはない。

例えば仕事をする、勉強をする、友達と遊ぶ。それらが終わった後のちょっとした空き時間。この時間に何をするかはやっぱり色々大きいですよ。
その時間にパチンコしたりしてるオッチャンは、もちろん人の勝手だけれども、なんかやっぱり残念な気がします。
せっかくの空き時間、本を読んだり料理をしたり運動をしたりした方が、短い人生、やっぱり得だと思います。
そう、人生は大して長くないんですよね、ほんとに。

お、なんかシンミリと説教くさくなってきた。

いや、別に上から目線でゲームはだめだテレビはだめだというつもりはないんですよ。
むしろ、ゲームにだって現代には積極的な意味もあると思います。
映画批評があるように、最近はゲーム批評だってありますし、社会批評の一部としてゲームを取り入れているものだってあります。
一概にこうした現代のメディアを否定しても仕方がない。
だから、自分で分別をつけられる年齢の人間が、自己判断でゲームをやったり種々のメディアを活用するのは問題ないでしょう。
もっと言えば、大人か否かに関わらず、ある程度の理性的判断、自己管理ができると判断される青少年が、多様なメディアを利用して何事かを行うのは問題ないどころか必要なことですらある。

例えば、上記の小六の甥に、僕がとやかく言わなかったのも、ちょっと残念に思ったとはいえ、年齢の割にはかなりしっかりしている甥殿であれば、多少やっちゃってても問題ないと思ったからです。

とはいえ。
繰り返せば、それがせっかくの「空き時間」の選択肢を、場合によっては奪ってしまうのは事実です。
この「空き時間」は「趣味の時間」と言い換えてもいい。

例えば、けっこう本が好きで、中学年のころは本ばかり読んでいた、という少年少女が、高学年になってゲームを与えられた途端、まるで本を読まなくなった、というようなケースはよく聞く話です。
そりゃ、当たり前ですよね。
快楽に対する能動性がゲームに方が当然低いので。

これはテレビやyoutubeだって同じです。
例えば、子どもに読書の習慣をつけたいと思うなら、やっぱりテレビとかスマホを見続けさせちゃうのはまずい。
時間を区切って映画か何かを見るならともかく、ただダラダラとメディアに接している状態だと、当然、その「ダラダラ見てる時間」が「本を読む時間」を奪ってしまいます。

こういうことを言うと色々な統計を持ってきて、「いや、ゲームやってても、そんなに成績には関係ないらしいで」とか、「アホか、スマホと学力低下の相関関係はハッキリでとるわ」とか、「中毒にさえならんかったらええんやろ」とかって言う人がいます。
もちろん、そうした統計も間違いでは無いんでしょうが、僕がここで言いたいのは、成績云々とはまた別の話です。

ちょっと難しい言い方をしますが、つまりそれはこういうことです。
ゲームその他、快楽への能動性の低いメディアへの没入は、他の選好対象への関心を狭小化する。

つまり、その子は本当は読書が好きだったかもしれない。あるいは歴史に興味を持っていたかもしれない。絵が好きな子だったかもしれない。
そうした関心の芽を、ゲームその他のメディアに興味がいってしまったせいで、失ってしまうかもしれない、ということです(歴史については実際の話です)。
これは勉強の成績なんてことよりも、よっぽど残念なことだと思いませんか?

もちろん、繰り返せば、理性的な判断のできる人間が何をやろうと勝手です。
また、ゲームなどのメディアにある程度接していることも現代社会を生きる上で他のものと同じくらい重要だ、と考えるのもまた一つの判断かもしれません。
ただ、いずれにしろ、特に小学生の子どもや、あるいは中学生以上でも「一つのことにのめり込んで周りが見えなくなるタイプ」の子どもであれば、そこはやはり周囲の大人が種々の判断、配慮をしていくことが必要でしょう。

お、結局、シンミリお説教モードになちゃったかな?
ま、たまにはいいですよね。

それでは、それでは。

文章を書くのは本来楽しいことのはずなんだ。

どうもどうも。
灼熱の国、日本へようこそ。来年こんな日本でオリンピックとか正気ですかって感じの暑さですけれども皆さんどんなふうにお過ごしでしょうか。

さてさて、今日は作文の話。
この前、作文道場あらため「モノ書きくらす」で、こんな一コマがありました。

登場人物は二人。
もう音読サイコロ道場含め、小1からほぼ6年通ってくれているR君こと「黒い三連星」(ペンネーム)。
そして小4から通っている焚き火大好き受験生S君。ペンネームいろいろあるが「神ラジオ」。

同い年でともに天真爛漫キャラということもあり仲の良い二人。
6年生で受験生ということもあり、なかなか時間が合わないこともあるのですが、一緒になると最近は、二人で物語を構想するなどして作文で「遊んで」おりました。
で、その「遊び」が高じてこの間、「先生、二人で一緒に作文、共作してもええか?」っと言い出したのです。

「え。作文を共作て、どないすんねんな?」
「いや、ほやから、ワシが書いた続きを3連星が書いて、その続きをまたワシが書くっちゅうふうにするんや」
「……いや、そうする理由っちゅうか、意図っちゅうか、意味がさっぱりわからんのやが」
「ええやんか! ワシらそうしたいんや! そうやって神ラジオとの友情の記念碑を作り上げたいんや!」
「……せやけど、二人で書くとか、ちょっとズッコイ感じもするなあ」
「せやったら、普段よりいっぱい書くし! 先生たのむわ! ワシら青春を燃焼しつくしたいんや!」
「……わかった。その代わり、それなりの量、書かんかったらアカンど」
「任しときんさい! ワシらが二人力合わせたら、いくらでも書けるんやさかい!!」

と言って、張り切って構想を練り始める二人。
いや、最初は正直、不安でしたよ。
そうはいっても小学生。あらぬ方向に暴走しちゃうんじゃないかとね。

ですが、始めてみて30分。
ずっとわーきゃーわーきゃー言っとった二人なんですが、気がつくとしっかり原稿に取り組み始めているではないですか!
しかも、いつもよりもハイペース。二人で着々と原稿のマス目を埋めていきます。
1時間のレッスンを大幅に延長しても、全然やめない。
楽しそうに、しかし集中して書き進めていきました。

で、書き終わった原稿はおよそ3枚。
校正のための読み合わせでも、「お前、ここ間違っとるぞ」「お、ほんまや。あ、後ここ漢字の方がかっこええなあ」などと言いながら、率先してミスを直していくじゃありませんか!
そして、「次回も続き書くから、先生、メモ含めてちゃんと保管しといてな!」などと言いながら、実に気分良さげに帰って行ったのでした。

もちろん、必ずしも立派な内容、素晴らしい物語を書いているわけではありません。
「真面目な先生」なんかが読んだら、馬鹿らしい、幼稚なものと受け取ってしまうかもしれない。
いや、それを言えば、「真面目な先生」は二人の行なっていた共作の作業そのものを、ただの悪ふざけと取ってしまうかもしれません。

でも、そうじゃないんです。

僕たちは、いったい何のために文章を書くのでしょうか?
もちろん、「お仕事」として書く場合もあるでしょう。
でも、そうじゃない場合もたくさんある。
みんなはどうしてブログを、FBを、ツイッターを書いたりするんでしょうか?

それは、楽しいからです。
自己を表現すること。
その表現が誰かに認められること。
それが楽しくてみんなやっちゃってるわけです。

思えば、文章を書くくらいお手軽な自己表現はない。
絵を描くにはある程度の才能がいるし、音楽で表現するには前提となる鍛錬がいる。
でも、文章を書くことは、それらよりもずっと簡単です。
短いものなら、誰でもすぐに書ける。
最初は下手でも、すぐに多少は上手に書けるようになる。

僕は、この「モノ書きくラス」では、まずはその文章を書く楽しみを知ってもらいたい。
内容は二の次です。
文章の巧拙だって最初はどうでもいい。
そんなことより大事なことは、文章を書くってオモロイことなんだ、文章で「作品」を作るのって気分がいいことだったんだってことを、「体験」してもらうことだと思います。

多くの子どもたちにとって、「作文」は「めんどー」で「かったりい」ものと成り果てています。
それは学校などで、やり方もわからぬまま「義務」として書かされる経験が積み重なっているからでしょう。
そういう「呪い」から、一人でも多くの子どもを解き放ってあげたい。
そして、その「呪い」を解く鍵が、上記の二人のような「体験」を繰り返し味わうことだと思います。

繰り返すと、二人の小6は、その日、実に清々しい表情をして、楽しみを満喫したといった顔で帰って行きました。
このクラスでは、なるべく多くの子どもに、そんな表情を浮かべさせてあげたい。
そういう「目的」を、再確認させてくれた出来事でした。

それでは、それでは。

 

作文に何をどう書いたっていいじゃないか!

どうもどうも。
五月だというのにもうめっちゃ暑いなあなどと思っていたら昨日くらいから3月なみの気温ってまったくもって寒暖に体がついていかない今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は先週から風邪気味です。

さて、今日は作文の話。
最近、僕のところに作文を習いにきたS君。
作文を書くのが大の苦手で大嫌い。道端に落ちてる犬のフンほど大嫌い (汚いですね失礼)。
ということで、少しでも作文を書くのを好きにさせてほしい、いや好きになれずともその能力だけは身につけさせてほしいというのが依頼の内容。
なるほど、じゃあ、どれくらい文章が書けないもんかと見てみると、なんのことはない。
確かに主観的には嫌いなんでしょうけど、実際メモを一緒につくって作文を書かせてみると、まったく問題ない。こちらが何とも言わずとも、スラスラ書いてしまうじゃないか。

なお、その時のテーマは「作文はきらいだ!」。
例えば、こんなふうに書いている。
「ぼくは作文が大きらいだ。それは、文章力がなく正しい文が書けないからだ。ただし、正しくない文がどんなものかも分からない。どうすればよいのだろうか」
「そんな作文をあるものにたとえてみる。生き物にたとえるとアリ。ふみつぶしたい‼︎   食べ物にたとえると、くさったドリアンである。ゴミ箱行きだ‼︎」

いやいや、フツーに面白いじゃないか!

何で作文が嫌いなんだろうか。こんなふうに書けるなら、自分を表現できるなら、得意な科目にしたっていいくらいなのに。
そう思ってS君本人にも聞いてみた。
まあ、理由はいろいろある。そりゃ、当然。
でも、そんな中でも気になったのは、一つの理由。上の引用にも少し書いてる。
そう、つまり「正しい文」を書かなきゃいけないってプレッシャー。

「正しい文」って何だろうか?
いや、実は学校の作文の授業や課題では、けっこうこれを求められることがあるみたいなんですね。
もっと正確にいうと、小学校なら担任の先生による。

例えば、作文の課題が出る。あるいは授業で書く。先生に提出する。
そこで、そう、例えばこのブログ。
このブログみたいな文章を書いて提出したとしましょう。
冗談のわかる先生なら、笑って花丸?かなんかつけて終わりでしょう。
でも、妙に真面目な先生なら?
いろいろ修正されちゃう可能性が高い。点の位置が間違ってるだの「〜けど」だの「〜しちゃう」だの話し言葉が多用されすぎ。「犬のフン」とか表現が汚い!

とまあ、言われるかどうかは知らないが、確かによく見るのは、点の位置とか「正しい段落」の変え方とか。
実際、S君も「〜したり」という言葉は二回以上使わないといけないとかって五月蝿く指摘された経験があるのだとか。

確かに、ある程度、正しい語法というものはある。
でも、それをうるさく言うことで、文章を書くことが嫌いになっちゃったんじゃ、話にならない。
「作文」っていうのは、少なくとも小学生にやらせる場合、まずは文章で、自己表現することの喜びを教え、文を書くことが楽しいことだって教える教科であるべきだと思う。
文章を書くって行為自体に慣れ親しむためにあるはずだ。
「正しい文」を教えたいならば、もっと短文の課題を書く際に教えればいい。

だいたい、いわゆる日本語の文章作法には曖昧なものが多い。
主語の後には読点を打ちましょう?
小説を読んでごらんよ、全然そんなことありません。
段落は内容ごとに変更する?
中上健次の小説を読んだことがないのかしら。いや、論文書いてたって時と場合によります。

いや、もちろん中には一切、改行なしで800字書いちゃったり、句読点一切打たずにひらがなばっかの作文書く子だっている。それを指導しなくちゃと思う教師の気持ちも分からないではない。

でも、その場合は手取り足取り、あくまで「嫌いにならないように」書いてる途中に指導してあげなくちゃダメだと思いますよ。
つまり授業中なんかに、その都度、指摘してあげる。それとも書きあがった作文は評価してあげた上で、次回からの課題として教えてあげる。
それを、宿題として出すだけ出して、赤ペンでささっと修正するだけとかだったら、そりゃ、嫌いになるに決まってます。
もちろん、こんな例は極端な例ですけどね。ただ、実際に散見される例です。自分の生徒はもちろん、自分の娘(小4)含めて。

繰り返せば、だから「作文」はまず、子どもたちが文章を書くのが楽しいと思えるようにしてあげることを目的としなくちゃならない。
少なくとも、大して面倒なことじゃない苦痛に感じる教科じゃないって教えてあげねばならない。

そのためには、相手が小学生だって、「物書き」として扱ってやらねばならい。
書きたいことを尊重してあげる。
どんなアホらしい内容だって、本人がそれを書きたいなら、そこにはきっと「表現」への欲求があるはずなんです。
だから、まず内容に文句を言ってはいけない。

そして、書き始めたら、上に述べたように機会を捉えてアドバイスはする。が、例えば本人がすごくノリだしてて、口も聞かずに書くことに集中し始めたら、もう何も言わない。
ちょっとぐらい文が変だろうが、段落がえがなかろうが、その「物書き」として集中している「頭の状態」を大切にしてあげる。
なんとなれば、そういう「頭の状態」をつくってあげることが、最大の目的なんですから。

そして、書きあがったら、一緒に推敲。変なところがあれば指摘し次回の課題にすればよい。
でも繰り返せば、出来上がった「作品」は絶対に褒める! 笑うべきところで笑う!
「表現」は読み手が受け止めることで完結するんですから。

ともかくも。
作文が嫌い、というお子さんがいれば、まずはこう言ってあげて欲しいですね。
キミが思うように、キミが喋るように、文章は自由に書けばいいんだよ。正しい文章ってのは本来、キミが書きたい文章のことなんだ」とね。
少なくとも、僕たちが行なっている「モノ書きくらす」では、そうした考えに基づいて、小さな「物書き」たちに接していきたいと思う今日この頃です。

それでは、それでは。